礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

重臣殺害は予想したが叛乱は予想しなかった

2017-01-20 04:10:50 | コラムと名言

◎重臣殺害は予想したが叛乱は予想しなかった

 全国憲友会連合会編纂委員会編『日本憲兵正史』(全国憲友会、一九七六)から、「憲兵司令部の昏迷と動揺」という文章を紹介している。本日は、その後半部を紹介する。

 未曽有の大事件勃発に憲兵司令部が動揺したのは勿論であるが、この重大事に憲兵司令部は岩佐〔禄郎〕憲兵司令官が病気であったため、矢野〔機〕総務部長が事実上司令官を代行した。
 ところが、当時、憲兵司令部内に実は人事上の問題があった。それが矢野総務部長と坂本〔俊馬〕東京憲兵隊長の静かなる確執であった。そもそも矢野機少将は、岩佐中将が朝鮮憲兵隊司令官時代に、当時、朝鮮軍司令部付であった矢野と交遊が芽生えた。その後、岩佐は関東憲兵隊司令官になり、昭和十年〔一九三五〕十月十一日に憲兵司令官に就任すると、岩佐は矢野を東京に引張った。矢野機少将が総務部長に就任したのが、岩佐の憲兵司令官就任に遅れること約二カ月後の十二月三日であった。したがって岩佐が矢野を引張ったのは、矢野の人格に惚込んだからである。病弱の岩佐にとって万一の場合頼みになると信じたからである。矢野少将は侍従武官の経験もあり、その人格識見は当時の陸軍内でも高く評価されていた。ところが、憲兵司令部というところは識見卓越、人格高潔だけではつとまりにくい世界であった。その中で特に矢野に反発したのが、東京憲兵隊長坂本大佐である。先に触れたが、坂本大佐は昭和二年〔一九二七〕の「天剣党趣意書配布事件」以来、革新派青年将校運動には明るく口八丁手八丁のいわば最も憲兵らしい憲兵である。その上人格高潔だがまるで素人同様の、矢野が総務部長となってから、俄然矢野と坂本の間がうまくいかなくなった。関係者の回想では、矢野は部内で信望もあり、特に部内外から非難されたり、忌避されたことはなかったが、坂本大佐が一方的に反発した。キャリア豊富なやり手の憲兵大佐からみれば、素人同様の総務部長に不満だらけであったろう。しかも、憲兵司令部は実行部隊をもっていない。情報の収集でも要人の警戒でも、すべて東京憲兵隊が本部直属の憲兵や各隸下の分隊を使って実施する。こうした司令部と東京憲兵隊本部の確執は表面には出なかったが、その間にあって苦労したのが第一課の長友〔次男〕少佐である。こういう内部事情もあって憲兵司令部が臨時の省部となってからは、憲兵司令部内部の機能はすっかり混乱してしまった。情報の収集は第一課の憲兵がやるが、その処理、報告が適切にいかない。
 特に憲兵隊にのみ限らないが、軍隊というところは上下の関係はいいが、横の関係はとかくうまくいかないものである。それが憲兵隊に特に甚だしかった。率直にいうと、憲兵は刑事と似た感覚や性格をもっている。職務上やむを得ないことだが、自分が苦労して得た情報など、上下の関係者には綿密に報告するが、横の関係者には意外に連絡や報告が不充分な場合が多い。極秘で扱う問題が多いため無理からぬものがあるが、時にはこれが重大な欠陥となって、思わぬときに重大な影響をもたらすことになる。また、これらが憲兵が他の軍人に嫌悪された原因の一つにもなっている。二・二六事件のときにも、この横の連絡不十分が、残念ながら遺憾なく発揮されてしまったのである。司令部の動揺、混迷もむベなるかなである。さらに省部の幕僚陣も混迷の極に達して、憲兵司令部や東京憲兵隊へ勝手な命令や依頼要請をしてくる。こうなれば司令官の不在もあって、矢野総務部長では手に負えないのが実情であったろう。また当時の憲兵司令部の幹部が温厚な人物ばかりであったことも、逆に禍いとなったようである。
 こうした状況下にあって、ついに教育総監渡辺錠太郎大将邸への連絡が遅れ、渡辺大将は間一突で間に合わず、蹶起部隊の襲撃を受けて殺害されてしまった。この問題では、憲兵司令部も東京憲兵隊も同罪である。憲兵中央部の幹部が普段の冷静さを保持していたならば、渡辺大将に難を避けさせることは充分にできたはずである。普段の捜査状況からみても、事件勃発とともに、渡辺大将が狙われていることが、憲兵隊側にわからぬはずはなかったからである。
 叛乱四日間、第一線の憲兵は各地からの応援憲兵を含めて、東京市内要所の警戒、要人の警護、情報の収集には不眠不休の努力をして、東京憲兵隊本部に報告している。この点憲兵の真価は遺憾なく発揮されたが、憲兵隊中央部における事件勃発前後の処置は、明らかに重大な責任問題となるものである。
 元来、憲兵の任務からいえば事件の発生防止が第一である。当時、憲兵司令部副官部にあった脇元栄蔵大尉は、二月二十四日、母の死去の報を受けて故郷鹿児島に帰省したが、二十六日の午後、実家到着とともに事件の発生を知って急遽帰京した。途中、大阪まで来ると、東京状況は様様の流言が乱れ飛んでさっばりわからない。横浜に到着すると、横浜憲兵隊の友人太田清一憲兵大尉に頼んでサイドカーを出させ、憲兵司令部に到着したが、司令部の玄関を入ると、すでに省部の関係者で大混乱の有様であったという。この脇元大尉も事件発生を未然に探知防止できなかった憲兵隊の責任は、まことに重大だったと反省している。
 また、当時、憲兵司令部総務部人事係の岩田京市曹長の回想では、司令部のサイドカーで叛乱軍の警戒地域を視察して司令部へ戻り、上司に報告しても、省部の幕僚に邪魔されて憲兵隊の業務は著しく阻害されたという。つまり憲兵隊中央部の幹部自身が、動揺した省部のお偉ら方に振回わされていたのである。
 特に九段下の偕行社〔陸軍将校の集会所〕は蹶起部隊によって電話線が切られたため、一時は音信不通となって、各将軍連中まで憲兵司令部へ駆けつけるので、司令部の将校はその応接や命令に似た要請乱発によって、ほとんど的確な業務ができなかった。
 叛乱二日目の二十七日からは、憲兵司令部の各将校も東京憲兵隊の応援協力に出て、隊長命令を書く亀井澄雄憲兵大尉は弱ったという。音段亀井大尉より上級の、しかも司令部の先輩将校に東京憲兵隊長の命令を書いて出すのであるから、やりにくいのは当然であったろう。
 結局、二十九日午後、陸相官邸で叛乱将校が逮捕されるまで、憲兵司令部は混迷の渦中に終始した。その原因を追及すると、まず、岩佐司令官が坂本東京想兵隊長の批判を受入れて、自ら招いた矢野総務部長との間が冷却していたことと、また矢野に対する坂本の反感、矢野総務部長の憲兵としての性格的不適確さ不慣れ、それに岩佐憲兵司令官の病弱と指揮の不明が第一の原因である。矢野総務部畏は頭脳優秀で緻密である。冷静な人物だけに言動もまた慎重である。しかも司令官に代わって自分でやらなければという責任感も強い。さりとて決して政治的に動く人物ではない。それに省部の幕僚に邪魔されて自由に身動きできない。
 ところが、東京憲兵隊の坂本大佐は、性格は豪放で大ざっぱな面があり、矢野総務部長の慎重さが、ときには無能にも見えて、どしどし命令を要求する。これでは憲兵中央部もなかなか人の和がとれない。それに矢野、坂本間に冷却したものがあったのでは話にならない。憲兵司令部は当時約五十名の憲兵がいたが、手足となる実行部隊はない。坂本憲兵隊長からみれば、憲兵司令部は何をしているのかということにもなるだろう。
 さらに、事件勃発とともに司令部では情況を甘くみたきらいがある。青年将校が蹶起するであろうことは、あらかじめ覚悟はしていた。すでに承知の上である。けれども、青年将校が部隊を率いて蹶起する、つまり下士官、兵まで襲撃に使用するとは、まさに青天の霹靂〈ヘキレキ〉であった。これが大ショックだったわけである。また、蹶起部隊は重臣襲撃後に、陸相に報告して直ちに兵を引上げるだろうという判断であった。まさか四日問も帝都の要衝を占拠して叛乱行為を犯すなどとは、夢想だにせぬことであった。しかも憲兵司令部、東京憲兵隊本部、そして麹町憲兵分隊以下の各分隊にも、蹶起部隊にひそかに同情を寄せるものが少なくなかった。それでも岩佐憲兵司令官が半蔵門で安藤中隊の歩哨に陸相官邸への通過を遮られて、荒木大将邸を訪問したことに対して、司令部の内部からも多くの批判があり、岩佐憲兵司令官は真崎大将のところへ行ったものと噂されたほどである。とにかく二・二六事件時の憲兵司令部は、どう甘くみても及第点はやれないのが実情である。
 
 二・二六事件発生時の憲兵司令部、東京憲兵隊本部の内情を、かなり詳細に記述している。
 筆者は、教育総監渡辺錠太郎大将邸への連絡が遅れた理由を、「憲兵司令部の昏迷と動揺」に求めているが、この理由は、本質的なものとは言えないだろう。当時、憲兵を含め、軍部全体に、「蹶起」を支持する空気があり、軍部の関心は、重臣殺害の防止に向けられていたのではなく、重臣殺害という既成事実が生じたあと、事態がどう推移するかに向けられていたのではないか。
 なぜ教育総監渡辺錠太郎大将邸への連絡が遅れたのかという「反省」は、あくまでも、「蹶起部隊」が「叛乱軍」と位置づけられた結果、生じたものであって、事件発生時においては、渡辺錠太郎教育総監を守るという発想そのものがなかったと見るのが妥当ではないか、と私は考えている。
 明日は、いったん話題を変える。

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