礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

あわや、第二の「ゴーストップ事件」

2017-01-28 02:20:08 | コラムと名言

◎あわや、第二の「ゴーストップ事件」

 上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)の紹介を続けたい。本日、紹介するのは、「第二章 青雲の記」の「大阪憲兵隊大手前分隊」の節で、これは、一昨日および昨日に紹介した「憲兵学校から少尉任官まで」の節に続く節である。

『軍警の対決』として世間を風靡した、ゴーストップ事件は、私が大阪へ行く前の事件である。
 昭和八年〔一九三三〕六月天六交差点に起った一兵卒と一巡査の交通信号無視事件に端を発し、第四師団は陛下の股肱〈ココウ〉たる軍人の名誉を傷つけたと主張し、府警側も、陛下の警察官であると応酬して、双方告訴の決意で、師団長と府知事の深刻な対立を呼び、新聞も広く全国に報導〔ママ〕した事件である。
 憲兵はこの事件に、軍側に立って調停にあたったが、容易に折合がつかず、検事正や隣県知事の斡旋で五ヵ月振りに、〝府側が軍側へ譲歩〟という形で解決したものであるが、これに劣らぬ事件が、高級将校と一巡査の間に起ったのである。
 期日は明瞭に記憶していないが、大阪造兵廠の製造部長である某大佐が、私服で料亭からの帰途、長堀橋の付近で交番前に差しかかったとき、巡査から不審尋問をうけた。
「俺は、造兵廠の大佐である。お前なんかに調べられる筋合の者ではない」
「軍人なら、軍服を着て歩け、この真夜中に歩いておれば不審に思うのは当然だ」
「真夜中に通れば、犯罪人扱いをするのか?」
「時局柄、軍人がこんな遅くに、酒に酔って歩く必要があるのか?」
 と、やりとりを交すうち、大佐がむっとなって巡査の?に一発飛ばしたらしい。
 巡査も、
「公務執行妨害」
 というので、遂に取っ組み合となり、双方柔道有段者であったので、投げる、殴ぐるの大乱闘を演じたらしい。
 同僚の警察官が駈けつけて、双方を引き分け、その夜は一先ず、平牧〔ママ〕の大佐の家へ送り届けた。
 この事件が、府警から憲兵隊に知らされ、酒井〔周吉〕隊長は私を呼んで、早速大佐に面接して事情を聴取することを命ぜられた。
 私は、私服で大佐の家を訪問し、夫人の取次ぎで、大佐の枕元に坐って事情を聞いたのであるが、大佐は昨夜の格闘で、顔ははれあがり、全身打撲で身動きもとれず、今朝町医者に診断してもらったが、全治一週間は要するとのことであった。
 私はまず、
「昨夜のことで、酒井隊長から御見舞傍々事情を承って来るように命ぜられて参上いたしました」
 と、挨拶すると、大佐は寝たままで、
「それは御苦労、憲兵はこのことをどうして知ったのか?」
 というので、
「府警本部長から知らせがあって、私が参りました」
 と答え、大佐は沈黙勝ちだったので、
「大佐殿は、どんな服装だったのですか?」
 と聞くと、
「背広にオーバーを着ていた」
「昨夜はどんなご用件で歩いておられましたか?」
「道頓堀の料亭で会食があって、あとで腹も空いているので、待合にでも寄って、ブブ漬を食べようとして歩いていた」
「警官に尋ねられたとき、軍人であることをお告げになりましたか?」
「造兵廠の製造所長であると、はっきり告げた」
「先に手出しをしたのはどちらですか?」
「あまりわからぬことを言うのと、警官の態度が気に食わぬので、カッとなってやったような気もするが、どっちが先か判らぬ」
「大佐殿はこの事件を警官の暴行として、事件にするお考えがありますか?」
「いや、できるならおんびんにしてほしい。けれども昨夜の警官の態度とやり方はよくないぞ、この点憲兵の方から府警の方に強く言ってほしい」
 と言われた後で、
「この事件は造兵廠長閣下に知らせてあるか?」
「さて、その方のことは、憲兵隊長が考えておることと存じます。私は、とりあえず事情をうかがいに参ったのであります」
「できるなら内密に処理してほしい。ゴーストップ事件のようになっては困る」
「事情が判りましたので、帰って隊長に報告いたします。御大切に」
 と引返して、隊長に報告した。
 この時隊長室には、特高課長山中少佐と分隊長小笠原少佐が同席立会った。
(酒井隊長は、大木〔繁〕少将の後任として着任し、着任後間もなく少将に昇進した。和歌山藩士の出身で、形式を重んじ、細かいところに注意されるので有名であり、『酒井伍長』という仇名を奉っていた人である。わたくしが上等兵拝命当時大尉で、東京隊副官をされていたので、よく知っていてくれて、特別に打解けた取扱いをうけていたのである)
 私が、聴取して来た状況を報告し終ると、
「さて、この事件はどうするか!」
 と洩らされたので、
「この事件は時局柄大佐の意見通り、内密に処理することがよろしいかと存じます。この事を表立てれば、第二のゴーストップ事件として世間が騒ぎ、軍民離反の種を播くことになりましょう」
 と、隊長の机に手をついて、意見開陳におよんだ。
「コラ、肘をつくな、俺とお前だけならよいが、うしろに特高課長と分隊長が居るではないか、処理のことはよく考える」
「ハイ、これで報告を終ります」
 と、退室した。
 この事件は、府警の警務部長が菊地さんであって、警視庁特高課時代憲兵にも知人が多く、親交している人が多かったので、双方泣き寝入りということ(警官の負傷は大佐よりも重かったと聞く)で、外部に発表されず内密に処理されたのであるが、これが世間に伝わったとすると、ゴーストップ事件で騒いだ大阪人のこと、大波紋を起したにちがいない。【以下略】

 ここに、「大阪造兵廠」とあるのは、陸軍造兵廠大阪工廠のことで(大阪陸軍造兵廠とも呼ばれたらしい)、そこには、弾丸製造所、信管製造所、鉄材製造所、火薬製造所、火砲製造所が置かれていた。問題の「製造部長」とは、そのいずれかの製造所の所長だったと推定される(住所は、枚方〈ヒラカタ〉か)。
 なお、この事件が起きた年月日は不明だが、酒井周吉が大阪憲兵隊の隊長であったのは、一九四一年(昭和一六)三月一日から、一九四四年(昭和一九)三月一日までの期間である。
 上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)は、このあと、「第三章 戦渦」から、いくつかの節を紹介してみたいと思っている。しかし、とりあえず明日は、話題を変える。

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