◎米騒動、京都に飛び火(1918・8・10)
年末に資料を整理していたところ、日本法社会学会の機関誌『法社会学』の第二八号「現代社会と法」(有斐閣、一九七五年一〇月)が出てきた。
この号には、いくつか注目すべき文章が載っているが、本日は、風早八十二〈カザハヤ・ヤソジ〉の講演記録「戦前の日本型ファシズムと法学及び法学者」を紹介してみたい。
この講演記録は、二段組で二八ページもあるが、ところどころ、拾いながら紹介したい。本日は、「米騒動」について回想している部分を紹介する(一一六~一一八ページ)。
私が初めて社会思想というか、せいぜいデモクラシー程度でありますけれど、そういうものを自覚したと思ったのは、ちょうど一九一八年〔大正七〕、京都の三高の三年になった時にはじまります。それまでは、お恥ずかしい話、というか、実はあたりまえなんですけれど、全然社会思想というものにまともに触れておらなかったというのが事実です。で、私は、荒神橋〈コウジンバシ〉のすぐわきにある三高のYMCAの寮に十二人ばかりで合宿していましたが、その年の三月頃、そこの賄〈マカナイ〉のおばさん、これは、元五高の先生の奥さんで未亡人ですが、この賄のおばさんが、みんなを集めまして突然爆弾宣言をいたしました。「みなさんは、気がつかないですか、こう物価が上がったのでは、とてもやっていかれません。賄料を倍にしてもらうか、そうでなければ、賄をやめるほかありません」と。みんな、びっくり仰天恐懼してひきさがり、額をあつめて協議をしたのですが、もちろん誰一人異議なく賄料倍額値上げに無条件承服を決議しました。これは第一次戦争が終ってまもなく、一九一八年のことです。今から考えてみますと、それはロシア革命のあとで軍閥によってシベリア出兵が、企てられておりまして、これをあてこんで、米商人とか資本家・地主などの米の買占め・売りおしみや、闇商人ではないがたとえば、神戸の鈴木商店であるとか、あるいは三井物産など輸入独占資本家が、輸入米を隠匿して出さないわけです。そのため、どんどんと米は上がっていく。賄のおばさんの爆弾宣言のあった三月には、それでもまだ一升二〇銭であった米が、七月には四〇銭、八月には五〇銭になり、一円の呼び声もあがっていました。
私はその頃親元から、月々十七円の送金をうけていました。その十七円でけっこうやっておりました。御参考までに申し上げますと、寮費は、三食賄付きで十二円、それから麻裏地下足袋が四十七銭、下駄、はがき、ノート、ペーパー、切手あわせて七十六銭、散髪二回、石けん一個あわせて二十七銭、菓子代二十五銭、というわけで、下宿代十二円と全部を合わせても十三円六十八銭です。あと小遣いとして三円二、三十銭は残っている。これで本も相当買えたし、ピクニックにもゆけたのでした。それが今度は一挙に三十五円にしてくれということになると、親はあやしみはしないかしら、親といっても、実は二十二年上の長兄であり、給料でつつましく暮している中学校教師にすぎません。私は、おそるおそる手紙を出したわけです。しかし、長兄(のちに、私は順養子となったので、養父)は、きっと大変だったと思いますが、物価狂騰の事実は先刻知っており、何もいわず三十五円にしてくれました。倍額送金を手にしてのちは、すべてものままで、安閑とした日がはじまりました。
しかし、こんなおめでたい月日は、もはやながくは続きませんでした。優しい賄のおばさんの爆弾宣言とちがって、今度こそは、私たち若人をも覚醒させずにはおかない大事件が勃発しました。「米騒動」です。それは七月二十三日でしたが、騒動は、富山全県下にひろがったのち、まっさきに飛び火したのは、何とわが京都だったのです。それは八月十日、ちょうど私の誕生日で、その夏休み郷里に帰らないで寮に頑張っていた私と、それから朝鮮出身で同級の兪億兼〈ユ・オクケン〉君ほか一、二名が、私を囲んで誕生日の祝いをしていた時です。京都駅に近い柳原のあたりで、数千名にのぼる市民が、竹槍【やり】、棍棒などを持って蜂起したとの報が伝わってきました。私たちはそれをきくなり、外に飛び出し、寮のある荒神橋から京都駅といえば、市の端から端だったのですが、一気に現場ちかくまで駆けつけたのです。騎馬巡査や多数の警官に阻まれてすぐ側〈ソバ〉には近よれませんでしたが、あちらにもこちらにも火の手があがっており、半鐘が乱打され、太鼓がどんどんとひびく中で、群衆のどよめきは、手にとるようでした。私たちは騎馬巡査に蹴ちらされて、その夜は寮に帰りましたが、途中、町家は格子戸を固く閉ざしている中で、米屋とおもわれる店先には、「白米一升三〇銭」という、「魔よけ」の張札がベタベタと張られていました。「米騒動」は、その夜から、翌十一日一杯にかけて、中京区から上京区に、そして府下一円にと波及し、あとで知ったのですが、十一日夜ついに第十六師団が出動し、発砲によって市民の多数に死傷者が出たということです。府下の舞鶴では、海軍工廠二、〇〇〇名の労働者が、住民と一緒になって、米屋、酒屋を襲撃しており、お隣りの兵庫県では、例の鈴木商店など、まっさきに焼打ちにあったということです。
政府は記事を差とめたので、京都以外の情勢は、はじめはよくわからなかったのですが、「米騒動」は、七月二十三日の富山県下から九月十二日の三池炭鉱の暴動鎮圧によって終局するまで一ケ月半にわたっており、どこでも大工場や炭坑労働者の暴動と結びつき、またどこでも警察力は麻痺し軍隊出動による武力鎮圧がおこなわれたという点からみても、まさしく日本史上未曽有の全国的人民蜂起というべきものだったのです。この事件は、幸徳事件以来、ことのほか陰惨な警察政治によって打ちひしがれたかに見えていた日本人民大衆の革命的エネルギーの健在を証明するものであり、いわゆる大正の〝黎明期〟の扉がここに開かれたといわれるものです。
当時まだ、朝永三十郎〈トモナガ・サンジュウロウ〉博士の『近世における我の自覚史』などを通じて、ようやく「自我」というようなものを自覚したばかりの私にとって、「米騒動」は、社会問題というものへの関心を呼びさますさいしょの大きな契機になりました。
もう一つ、ごく卑近なところで、社会問題を考えさせるきっかけとなった事実があります。それは荒神橋の東のたもとにあった(現在もあるかも知れません)小さな織物工場です。昼ごろになると、その織物工場の表門のところに、どこからともなく、おばあちゃんが赤坊を背負ったり、抱いたりして集まってきます。すると、工場の中から、おそらく赤坊の母親にちがいない女工さんたちが、ぞろぞろと表に出てくるのです。そこで、今のように人工牛乳など飲ませるのでなく、母乳ですから、腹をすかせた赤ちゃんに母乳をやってそしてまた働きに工場の中へ消えて行くわけです。どうしてこういうことがというようなことで、同じ寮の一級上の仲間に、佐原六郎兄、のちに京大の社会学を出て、慶応の教授になった友人ですが、彼から、労使の問題、労働問題ということについていくらか手ほどきをうけておったわけです。【以下、次回】