◎『三省堂英和大辞典』と『日本百科大辞典』
今年に入ってから、斎藤精輔〈セイスケ〉著の『辞書生活五十年史』(図書出版社、一九九一)を読んだ。この本は、一九三八年(昭和一三)に出た謄写刷の私家版を復刊したものだという。
斎藤精輔と言えば、日本で最初の本格的な百科辞典である『日本百科大辞典』全一〇巻(一九〇八~一九一九)を編集した編集者として知られる。版元の三省堂は、この百科辞典を刊行したことによって経営不振に陥り、百科辞典の完成の前に、一度、倒産している。
しかし、同百科辞典は、「日本百科大辞典完成会」の手によって、何とか完成を見た。数年前、その最終巻に付されていた斎藤精輔の「日本百科大辞典編纂の由来及変遷」を読んだが、独特の迫力を持つ一種の名文であった。
『辞書生活五十年史』は、その斎藤精輔の自伝であって、もちろん、興味深く読んだ。ただ、文体が文語文であるのに、「現代かなづかい」に直してあり、原文の味わいは、かなり失われいるのだろう、という印象があった。
その後、偶然、古書展で『三省堂英和大辞典』を目にし、衝動買いした。この辞書は、一九二八年(昭和三)二月の初版だが、入手したものは、同年三月の第三版である。編者は、「三省堂編輯所」、その代表者は斎藤精輔であった。
本日は、同英和辞典の「巻頭の辞」を紹介してみよう。署名は「編者」となっているが、その文体から見て、斎藤精輔の執筆にかかるものであることは間違いない。
巻 頭 の 辞
三省堂英和大辞典の編纂及印刷新〈アラタ〉に完成を告げ、茲に之を世に公にするに際し、編者は其由来と経過と苦心の存する所とを略述して予め本書を繙く〈ヒモトク〉者の参照に資する所あらんとす。
わが三省堂編輯所が、始めて英和辞書の編纂に着手し「ウェブスター新刊大辞書和訳字彙」を発行せるは実に明治廿一年〔一八八八〕九月なりき。其当時に於て辞書を刊行するは決して容易の業にあらず。就中〈ナカンズク〉至難中の至難なりしは専門語に対する妥当の付訳の点なりとす。是に於て、編者は其当時より、早晩之を改訂するの必要あるを痛感んせると同時に、専門語の付訳は之を各方面の専門諸大家の翼賛に頼らざるべからざるを確信し、先づ之を時の文部省普通学務局長服部一三〈ハットリ・イチゾウ〉氏(後の兵庫県知事/今の貴族院議員)に諮り〈ハカリ〉、同氏の深甚なる共鳴と懇到なる斡旋に依り、文学博士井上哲次郎氏・法学博士鳩山和夫氏・工学博士辰野金吾氏・工学博士真野文二氏・理学博士松村任三〈ジンゾウ〉氏・理学博士松井直吉氏・理学博士箕作佳吉〈ミツクリ・カキチ〉氏・医学博士三宅秀〈ミヤケ・ヒイズ〉氏等三十余名の諸博士より各専門語の付訳を分担せらるるの快諾を得、文学博士南條文雄氏其編輯を統轄せらるることとなりき。是れ即ち今日の「三省堂英和大辞典」の源流にして、「ウェブスター新刊大辞書和訳字彙」に対する改訂の準備と方略とは早く既に其素地を此時に形成したり。
前期「和訳字彙」の改訂を図ると共に閑却すベからざるは之と両両相対峙すべき和英辞書の編纂にして、我が編輯所は間断なく其前者に没頭すると共に、亦其後者を忽せ〈ユルガセ〉にせざりしが、其専門語に対する付訳は、依然「和訳字彙」改訂編輯と其方針を一〈イツ〉にし、箕作佳吉博士・松村任三博士・南條文雄等諸大家之に力を添へらるることとなれり。惜い哉〈オシイカナ〉此和英辞書の原稿は英和辞書の原稿と等しく明治廿五年〔一八九二〕四月神田の大火に罹り〈カカリ〉、幾多貴重の参考書と共に一朝烏有〈ウユウ〉に帰したれども、編者は撓まず〈タワマズ〉屈せず、更に両者の稿を新にし、和英辞典に於ては更に英国人ブリンクリ〔Francis Brinkley〕氏の力を藉り〈カリ〉明治廿九年〔一八九六〕十月を以て漸く之を世に公にするを得〔エフ・ブリンクリー等編『和英大辞典』〕、爾来力を「英和字書」編纂の方に集注し得るに至れり。而して其当時に於ては、恰も〈アタカモ〉河水の次第に流下するに随ひ〈シタガイ〉衆川の之に合流する者益々其数を加ふるが如く、術語の付訳を快諾せられたる専門大家漸次増加して無慮〈ムリョ〉五拾余名の多きに上れり。
然れども、専門の諸学者には、自ら諸大家相当の定職の在る有り、辞書の付訳のみに没頭せらるる能はざるは固より言ふ迄もなき所にして、本職の傍〈カタワラ〉、劇務の余暇、之が執筆に当らるるものなるを以て、原稿蒐集の進行編者の焦慮と相一致せず。到底予定の歳月を以て之が完成を期待する能はざること明〈アキラカ〉なるに至れり。是に於て編者は此難局を打開するため新に応急の一策を案出し、一方には専門諸大家に依頼して、徐々なれども而も堅実なる改訂の歩武〈ホブ〉を進むると共に、他方には速成的に諸般の専門語を網羅し尽くせる一〈ヒトツ〉の百科辞典を作り、かくして得たる専門語の付訳を英和辞書に移し用ゐんとの一案を立てたり。是れ明治卅一年〔一八九八〕二月の事に属し、「日本百科大辞典」編纂の事業は実に此時に濫觴〈ランショウ〉せり。【以下、次回】
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