◎美濃部達吉・上杉慎吉両教授は会釈すらしない
日本法社会学会編『法社会学』の第二八号「現代社会と法」(有斐閣、一九七五年一〇月)から、風早八十二の講演記録「戦前の日本型ファシズムと法学及び法学者」を紹介している。
昨日、紹介した箇所のあと、改行して次のように続いている(一二三~一二五ページ)。
さいごに、さらにもう一つ、当時の「革命的」(?)インテリゲンツィヤ気質というか、「気概」というか、そういうものを示す事実を披露しておきます。今では、一見、小児病的な笑い草になるのでしょうが、一九二二年〔大正一一〕春、われわれが卒業する時に新人会本部で、誓いをたてました。卒業して何をするかについて、東大の法科を出ればですね、判検事、むろん弁護士もそうですが、そういうものは、無試験。官吏にも大会社の社員にも容易になれたわけですがその判検事や官吏になるということは、これは、官僚の走狗〈ソウク〉である。まかりならんということです。それから会社へ入る。それは資本家の走狗になることだ。まかりならぬ。で、結局ですね、行くとこがないわけです。しかし、三つだけは認められる。その一つは、学者になる。学者って偉いんですよ。学者になることはよろしいと。但し、これはやっぱり民衆のための学者にならなくてはだめだ。それから、第二は弁護士ですね。これも当時、小作争議なんかがありまして、だいぶ弁護士が忙しくなっている。ちょうど自由法曹団が創設されたばかりです。そういうことでですね、弁護士というのが一つあったんですね。それから第三にはジャーナリスト、つまり新聞記者です。新聞記者は、当時は、現在よりももっと自由がありました。執筆の自由がありました。デスクは、それほど横暴ではなかった。それで魅力のある一つの職業であったわけですね。この三つは良ろしいということで、千葉雄次郎君は朝日、来間恭〈クルマ・キョウ〉君は東京日々に入り、小岩井浄〈コイワイ・ジョウ〉君、細迫兼光〈ホソサコ・カネミツ〉君は弁護士に登録しました。
私は学者をえらび、牧野英一博士の刑法研究室に入りました。私が受けた試験は、社会法(刑法ではない)に関するフランスの書物を一冊与えられまして、これを翻訳して来いということで、私は日に夜をついで、一週間のうちにこれを完了して提出したわけです。もう一つは、何か論文を書いてこいということで、急にはまとまりませんから、私は一年も前に新人会演説会でおこなった「唯物史観から見た日本歴史」という講演の草稿を浄書して提出しました。とにかくそれでパスしたわけです。牧野博士は、自説とささいな点でも少しでもちがう理論は絶対に認めない学者であることは、後になっていやというほど見せつけられましたし、唯物史観が博士の学説でないことも明白ですが、それにしては、博士がなぜ私の論文をパスさせたのかと不思議に思われるでしょうが、このことも、すでに明治三十五年〔一九〇二〕、東大法科では、穂積陳重博士が「社会主義と法律」というテーマで演習をおこなっており、当時まだ学生であった牧野博士が、同僚の学生吉野作造博士らと熱心に社会主義を研究し、ことに牧野博士はそのおり「ドイツ民法と労働者」という論文を書いておられるという事実(平野義太郎『マルクス主義法学』一九七四年刊二〇三~二〇四ページ)を知るなら、万更〈マンザラ〉不思議ではないことがわかると思います。
さて、時間がそろそろ迫ってきましたので、さいごに法学研究室の二年間の状況を述べて、御参考に供します。
私と同時に助手に採用されて研究室に入ったのは、国際公法の横田(当時岩田姓)喜三郎君、英法の末延(当時平井姓)三次君、ほかに副手として、社会法の菊池勇夫〈イサオ〉君、政治学史の松平斉光〈ナリミツ〉君などでした。一年先輩の助手としては、民法関係では、今日もわざわざここに来ておられる平野義太郎〈ヨシタロウ〉学兄をはじめ、中川善之助、商法の田中誠二、法理学の木村亀二の諸兄、一年あとにも、美濃部直系の宇賀田順三〈ウガタ・マサゾウ〉君、宮沢俊義君など、粒よりの精鋭がいました。
民法研究室は、穂積重遠、鳩山秀夫両教授の下に、フランスから新帰朝の末弘厳太郎〈スエヒロ・イズタロウ〉助教授、特選給費生の我妻栄〈ワガツマ・サカエ〉兄。それに前記の平野、中川諸兄ら、綺羅星のごとく並んでおり、茶目気横溢〈チャメッケオウイツ〉の末弘助教授を先頭に、時には室内で逆立ちをしたり、腕角力〈ウデズモウ〉を競ったりなど、賑やか、かつ和やかな部屋でした。ほかに、田中耕太郎助教授が、イタリアからの新帰朝談で、学生の人気を集めていたのを憶えています。
次に、公法研究室ですが、これは大変な部屋でして、学説上まっこうから対立している美濃部達吉、上杉慎吉両教授が「呉越同舟」はよいとして、一方は向うの窓ぎわを、他方はこっちの窓ぎわを夫々〈ソレゾレ〉そっぽを向いて陣取っており、おたがいに顔が合っても、会釈もしないという凄まじい風景でした。そして、国法学の野村淳治教授がまんなかのデスクにボッンと坐っておられる。教授会で人事が出る場合でも、美濃部推せんであれば、上杉教授は必ず反対する。反対に上杉すいせんの者は美濃部教授は必ず反対するという具合であったようです。現に私より一年あとに助手になってこの部屋に所属した憲法の宮沢俊義君なども、この点で大変苦労したらしく、しかしそこは賢明かつ用意周到の宮沢君のこととて、助教授になるときも、本来自他ともに美濃部教授の系譜であるにかかわらず、形の上では野村教授を指導教授に仰ぎ、そのすいせんで、芽出たく助教授になれたということです。【以下、次回】