礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本は横綱か、それとも十両か

2017-01-03 04:09:31 | コラムと名言

◎日本は横綱か、それとも十両か

 元旦に、徳富蘇峰の『敗戦学校――国民の鍵』(宝雲社、一九四八)という本を紹介した。本日は、再度、この本を紹介してみる。
 この本は、一九四八年(昭和二三)七月一五日に初版が出た。本文一九三ページ、定価「金六十円」。
 最初に、「序」があり、続いて「目次」。「敗戦学校」と「国民の鍵」の二部から構成されていて、「敗戦学校」の部は、全十一章、「国民の鍵」の部は、全三十四章。
「敗戦学校」の部の章立ては、次の通り。

 敗 戦 学 校
一、敗戦学校の生徒
二、盃中の蛇影
三、自暴自棄の見本
四、泥棒の巣
五、入学第一課
六、日本人の本性(上)
七、日本人の本性(下)
八、外尊内卑
九、尺取虫
一〇、横綱と十両
一一、神国思想の発生と其の功罪

 元旦で紹介したのは、このうちの「八、外尊内卑」である。その際にも述べたが、「歴史資料」というブログが、すでにこの本を紹介してる。同ブログは、「序」、「敗戦学校」のうち、「一」から「六」まで、および「一一」を紹介している。
 本日は、「敗戦学校」のうち、「一〇、横綱と十両」を紹介してみたい。

 一〇 横 綱 と 十 両

 異りたる国若くは異りたる民族が、境を接してゐる際には、必ず其間に何等かの交渉が出で来る。山や河と相接してさへも、其の影響を蒙る事は、例へば富士の山を背ろにしたる駿河と、富士の山を前にしたる甲斐とは、斉しく富士の山であるが一方は風除けの屏風となり、一方は日光を遮る高屏〈タカベイ〉となり、其の為めに駿河人は、富士の山を天恵として喜び、甲州人は此山がなかつたならば、甲州も太陽の恵〈メグミ〉を受くる事が多かつたであらうと、慨つて〈イキドオッテ〉ゐた。物且つ然り、況や〈イワンヤ〉人をやだ。
    ×    ×    ×
 即ち中国の如きも、漢人種は北方の民族の為めに、屡々〈シバシバ〉襲撃せられ、其の為めに世界一偉観たる万里の長城も出来上がつた。北方の民族の侵入がなければ、万里の長城を造る必要はなかつた。又た万里の長城を造つたに拘らず、尚も外来の民族が侵入し、其の為めに中国は、常に新鮮なる輸血をなして、却てそれが一種のホルモン注射となつた。
    ×    ×    ×
 隣国にも類多し、ギリシヤとぺルシヤは、一方は量を以て勝ち、一方は質を以て勝つ。つまり両国の争〈アラソイ〉は、質と量との勝負であつた。又たローマとフェニキア人の植民地たるカルタゴとは、南北に地中海を隔てて相対し、互に地中海を隔てて、相ひ争ふばかりでなく、カルタゴのハンニバルの如きは、地中海を押渡つて、西班牙〈スペイン〉を策源地とし、遂にアルプスを越へて、北伊太利に攻め入り、恰かも燕の楽毅が、斉の七十余城を降したる如く、殆とローマをも陥れんとしたが、遂にカルタゴは、ローマに破られ、焦土に化した。之に反して英と仏とは、今日で今日では仏国側のカレーから、英国?のドーバー迄は、優に長距離砲の達する程の近距離に在ても、種々の戦乱を経、或時には仏国のノルマンヂー公ウィリヤムが英国を襲ひ、之を征服し、公用語には仏語を用ふるべく強制し、制度文物の上にも、大改革を施こしたる事があり又た英国側でも、カレーなどは英国の領土として占領し、英王の即位の時には、英王兼仏蘭西国王と云ふやうな称号までつけてゐたが、要するに此の両国は喧嘩をしたり、仲直りをしたり、現在までも其通りであるが、然し両国は独自一己の文化を以て、互に相ひ足らざる所を補うてゐる。川柳に『碁敵〈ゴガタキ〉は憎さも憎し懐かしし』と云ふは、恰かも英仏二国の関係であらう。
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 さて、日本と中国は、以上の如き関係ではなかつた。角力〈スモウ〉は互角でなければ取れるものではない。横綱と十両とは、誰れしも其の立合を、真面目に見物する者はあるまい。横綱の相手は、橫綱か、さもなければ大関以下三役の中より見出すの外はあるまい。言うて見れば、仏蘭西と独逸、日本で言へば、武田上杉と云ふやうなものである。所が日本と中国とは、文化の上から言つても、国力の上から言つても、別言すれば、質に於ても、量に於ても、とても角力にはならない。中国人は素より日本を、真面目に相手にした事はなかつた。何故なれば、日本が中国の独立を、危くすると云ふやうな心配は、当然なかつたからである。さりとて日本を征服するにも、中国では困難であつた。歴史上に現はれたる朝鮮征服は、漢の武帝の時に、一回、隋の時に一回、唐の初めに一回、元以後の事は姑く〈シバラク〉措いて、隋唐の朝鮮遠征は其の効果が、何れも余り香ばしく〈カンバシク〉はなかつた。戦争の勝敗は姑く措き、得る所失ふ所を償は〈ツグナワ〉なかつた。つまり勘定に合はなかつた。朝鮮尚〈ナオカツ〉且然り、况や〈イワンヤ〉日本をやだ。
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 日本は中国と隣国とは云へ、大兵を送るには、大艦隊を以て、輸送せねばならぬ。朝鮮から対馬壱岐の飛石伝いを経て来ても、江南から直航して来ても、大兵を輸送すると云ふ事は、決して容易な事ではない。それに加へて、武勇と云ふ一点に就ては、仕合せにも、日本人に持合せがあつた。其の為めに中国は、日本を兵力で征服しやうなどと云ふ考はなかつたが、それを試みたのは、元の忽必烈〈クビライ〉であつた。然し之も不仕合せに、江南軍と朝鮮経由軍との両艦隊に、整調が欠け、加ふるに天然力の颶風が、日本軍に味方した為めに、主力の大決戦を見るに遑〈イトマ〉あらずして、誤破算となつた。
    ×    ×    ×
 之に反して、日本からも、亦た中国征服などと云ふ考は、持つてゐなかつた。元末から明にかけて、和冦が中国の沿岸を荒し廻はり、時には上陸して、都城までも襲撃したが、之は即今日本に流行する集団強盗の類〈タグイ〉で、問題にならない。壬辰の役〈ジンシンノエキ〉には、秀吉が中国の分割地図までも作り、之を禁裏、公卿、諸大名に頒たんとしたが、之は捕らぬ狸の皮算用であつた。秀吉の本来の目的は、朝鮮を手引として、明と通商貿易を開くに在つたが、それが行はれざる為めに、却て武力的進攻となり、其の武力が当初余りに目醒ましき勝利であつたから、大早計にも調子に乗つて、斯かる目論見をしたものであらう。(昭和廿二年十月廿七日午前)

 戦中の日本は、みずから「横綱」を意識して、「中国征服」をこころみたが、敗戦によって、みぞからが「十両」であることに気づかされた。まさに、「己惚」〈ウヌボレ〉から「卑下」への変化であった。それにしても、戦前戦中のオピニオンリーダーであった徳富蘇峰が、敗戦直後に、こういうことを言っていたとは!
 明日は、年末に引き続いて、上原文雄著『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)を紹介したい。

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