◎勝海舟は赤面して、十両小判を差し出した
昨日の続きである。月刊誌『うわさ』通巻一六八号(一九六九年八月)から、山雨楼主人による「宝珠荘の偉人②」という文章を紹介しいる。本日は、その二回目。昨日、紹介した箇所のあと、改行せずに、次のように続く。
私が勝海舟の話の出た時、
「明治初年、静岡に海鶴という料亭があった。今の両替町一丁目佐の春楼の前身である。そこに所謂お泊りさんとなって宿泊していた海舟が、ある日不図〈フト〉庭を見ると、隣家の井戸端で若い女中が赤いゆもじを出して洗濯をしていた。突嗟〈トッサ〉に生理的要求を起した海舟は、ツカツカと女の傍〈ソバ〉に行って、自分の座敷に連れて来た。一ツ間違えば無礼討〈ブレイウチ〉もあるこの時代のことであるから、女は震えながらも海舟の為すが侭に任せてその意に従う外はなかった。用が済むと女は脱兎の如く逃げ出して、その足で本通り辺の実家に馳け込み、この出来事を父母に告げた。怒り心頭に発した父親がすぐさま海舟のところへ座り込んで、その不都合をなじると、海舟は柄〈ガラ〉になく赤面して〝実に申し訳ない、平に謝る。しかし済んだことはどうにも取返しはつかない。失礼であるがこれで気を直して貰えまいか〟と言って十両小判を一枚、紙に包んで出した。娘の父親というのは貧しい職人か何かであったので、思いも掛けぬ大金を出されて吃驚〈キッキョウ〉したが、勿論異論のあろう答はなく、話は円満に解決した。父親が小判を懐にして帰ろうとすると、〝一寸お待ち〟と海舟が引留めた。父親はビクッとして立留まった。こうして置いてそのあとで長い刀を抜いて首を貰うと脅かす手もあるので顔色を変えて振り返ると、〝モウこれでそちらに文句はないだろうな。だが私の方では一つ約束して置かねばならぬことがある。お前の娘に子供が出来たら、それは私の子だから間違いなく渡してくれよ〟と、ニコニコ笑いながら海舟が念を押したそうだ」と、海舟の隠れたる静岡時代の逸話を話したら、田中〔光顕〕は我が意を得たりとばかり喜色満面。
「それが海舟の豪いところだ。金で話をつけたのだから、子供が出来ても知らんぞというのが世間普通の行き方であるが、英雄というものは、自分の血族を他人に渡すことを嫌がる。自分の血統に自信を持っていて、必ずその子孫から傑物が出ると信じている。それに人倫の上から言っても、我が子を捨てるのは鬼畜の所業である」と語った。異腹の子といえども、一人だって手放さなかった田中もまた自から英雄なりと信じていたのだろうか。
田中は、永い間宮内大臣をやったので、辞めてからも前官の礼遇を受けたが、護衛巡査がついて歩くのに閉口してこの礼遇を辞退した。口の悪い世間人は、田中が女を連れて歩くのに、巡査が邪魔だから辞退したのだろうと臆測したが、実際には田中の平民的気分がこうした束縛から脱がれたかったに過ぎぬ。晩年の田中は中村邨子という才色兼備の女性が控えていたので、これという浮名も流さなかった。元来田中は非常の好男子であった。維新前、貧乏足軽などは扶持米が少なかったので、田中の家でも、当時行なわれた郷土の風習に慣って「間引」という人口調節法を行なったが、田中はちょうどその間引の子に当ったので、母親が涙ながら乳房を鼻口に押し当てて窒息死に落そうとした時、その顔形が如何にも整っていて利巧そうだったので、父親と相談して間引を止めたのだそうだ……と自から語ったほどだから、幼い頃から可愛い顔をしていたと見える。若い時の美男子振りは私は知らないが、八十余才の時でも立派な風貌と整った顔形を保っていた。私の書画道の出版〔書画道刊行会、一九二六〕に当って、千円の寄進をした田中に敬意を表するため巻頭にその肖像を掲載しようと企て、静岡民友新聞社の西隣りにあった徳田写真館の主人を連れて蒲原に行ったが、徳田は静岡でも有名な写真師だけに、よく心得ていて、
「あの殿様はウンと若造りに修正してやらぬと、御気嫌が悪いですよ」と語った。果して出来上った写真は五十代かと思われるほどに若々しく美しいものだったが、田中はこれに満悦して、
「流石に写真は徳田だ」と賞めていたには心窃か〈ヒソカ〉に苦笑せざるを得なかった。執事の兼康固堂は七十余才、田中は八十余才の頃でも、共に会食すると、主人の田中が兼康の椅子を運んでやったりして元気一杯だった。生理年齢からいったら、徳田の写真に現われた五十代くらいが相当だったのかも知れない。【以下、次回】
文中、「両替町一丁目佐の春楼」とあるのは、たぶん、今日の「割烹 佐乃春」(静岡市両替町一丁目四の八)のことであろう。
また、「徳田写真館」とあるのは、写真師・徳田孝吉が開いた写真館のことであろう。徳田孝吉は、元将軍の徳川慶喜に写真術を教えたことで知られる。ここに登場する「徳田写真館の主人」は、おそらく、徳田孝吉本人ではなく、その後継者であろう。