礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

無名庵は高座から語りかけるように筆を進める

2018-04-29 02:15:23 | コラムと名言

◎無名庵は高座から語りかけるように筆を進める

 一昨日、神田神保町の古書展で、野村無名庵著『本朝話人伝』(中公文庫、一九八三)を入手した。定価三八〇円、古書価二〇〇円。この中公文庫版は、その後、改版して、中公文庫BIBLO版となったようだが(二〇〇五、定価八五七円)、こちらは未見。ちなみに、中公文庫版、中公文庫BIBLO版とも、現在では品切れになっているもよう。
 中公文庫版を手に取り、まず、カバーの折り返しにあった「著者紹介」を読んだ。口ヒゲをはやし紋付を羽織った著者の写真の下に、次のようにあった。

著者紹介/野村無名庵【のむらむめいあん】
明治二十一年(一八八八)、東京牛込に生まれる。本名、野村元雄、のち元基と改名。日本橋坂本小学校から府立第一中学校に入るが、父の死により中退。医者の住込み書生などしたのち、三代目古今亭今輔に弟子入り。その後、日本演芸通信社に入社、都新聞などに演芸記事を寄稿する一方で、大衆読物、新作落語の創作をはじめ、話芸を中心に幅広い文芸活動を行う。昭和二十年五月の東京大空襲で死去。『落語通談』『大江戸隣組』などの著書がある。

 次に、「解説」を読んだ。解説は、演芸評論家の藤井宗哲〈ソウテツ〉が執筆しているが、特に最後の部分が印象に残った。以下に、その部分(二七一ページ)を引用させていただく。

 本書は昭和十九年〔一九四四〕四月、協栄出版社より刊行された。いうまでもなく戦争がだんだんいけなくなってきた頃である。そんな状況下で本書を手にした人々の思いはどうだったろうか。もはや読者も気づかれているように、無名庵はまるで高座から語りかけるように筆を進めている。当時の読者はおそらく聞きたくとも落ちついて聞けない釈場〈シャクバ〉に思いを寄せながら、防空壕や灯火管制下の薄明りで、本書をまるで世話講談を聞いてでもいるように、むさぼりながら耳で読んだのではないだろうか。
 冒頭で述べたように、本書は宝暦八年〔一七五七〕から明治三十年〔一八九七〕の柳桜〔初代春錦亭柳桜〕、三十三年〔一九〇〇〕の燕枝〔初代談春楼燕枝〕、円朝〔初代三遊亭円朝〕の死に至るまでを書いている。そして、円朝、燕枝の死によって、江戸の講談、落語の幕が閉じられたといっても過言ではない。それは同時に近代寄席芸の幕開けでもある。
 無名庵はあとがきで、近代の何人かの講談、落語家を続編にしたいと書いている。そして、構想も立てられていたと聞く。それらの諸芸人は無名庵が生まで知った人達ばかりである。それただけに力の入れ方もまた違ったであろう。しかし、続編を世に出す前、翌二十年〔一九四五〕の五月二十五日の大空襲で、猛火に巻かれて不慮の死をとげた。その思いはどうであったろうか……。

 文中に「釈場」という言葉があるが、講釈を専門とする寄席の意味。「講釈場」〈コウシャクバ〉を省略した形であろう。ちなみに、寄席=「よせ」は、寄席=「よせせき」の省略形であるという。
 上記の解説では、初代談春楼燕枝(三代目麗々亭柳橋の隠居名)の没年を明治三〇年(一八九七)としている。これは、本書本文における野村無名庵の記述(中公文庫版、二六三ページ)に従ったものであるが、今日、ウィキペディア「麗々亭柳橋(3代目)」の項を見ると、没年月日は、「1894年6月8日(68歳没)」となっている。どちらが正しいのであろうか。

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