◎ドイツの母親の居間には大小の鞭が備えつけてある
青木昌吉著『独逸文学と其国民思想』(春陽堂、一九二四)を紹介している。本日はその五回目。本日は、同書の第七章「独逸の婦人」から、第九節「独逸の小児」の全文を紹介してみよう。
九、独逸の小児
独逸人の筆に成つた日本の風俗習慣に就いての観察を述べた著者は随分沢山あるが、此等多数の著書の作者は、恰も〈アタカモ〉初めから申合せでもして置いたやうに、口を揃へて下のやうなことを言つて居る。『日本は小児の楽園である。日本の小児程親から可愛がられる小児は世界中にない、吾等は日本に滞在して居る間に、小児が両親に打擲〈チョウチャク〉されるのを見たり、小児が消魂ましく〈ケタタマシク〉泣き叫ぶのを聞いたりした例はない』此叙述は素より実際の事実とは雪泥の相違ある全然皮相の観察であつて、日常此叙述とは正反対の事実のみ見聞して居る吾等日本人自身には嘲笑的の皮肉としか聞こえない。況して〈マシテ〉私〔青木昌吉〕の如く貧乏長屋の近隣に棲んで居て、朝から晩まで山の神の呶嗚り散らす叱咜と、餓鬼共〈ガキドモ〉の揚げる悲鳴とに悩まされて居る者は、独逸人の此讃美に対して第一に抗議を申込みたいのであつて如何に贔屓目〈ヒイキメ〉に見ても、日本は小児の楽園であるとは思はれないが、然し夫れも比較問題で、小説に現はれて居る独逸の下層社会の小児に較べたら、日本の小児は嬉々として楽園に戯むれて居るやうであるかも知れない。エブネル女史〔Marie von Ebner-Eschenbach〕の小説『時計師のロツチ』〔Lotti, die Uhrmacherin〕の九頁に貧乏な煙管製造人に小児が大勢あつて、朝から晩まで兄弟喧嘩ばかりして居る。或日年嵩〈トシカサ〉の三人の兄弟が、窓の所で銘々最上の場席を占領しようと暫らく言争つた後、到頭取組合〈トックミアイ〉を始めた。すると二歳に成る幼児を腕に抱へた母親が其所へ駈附けて来て、今まで穿いて居た上靴〈ウワグツ〉を脱ぐよと見る内に、上靴を右手に取つて悪戯者の頭を目懸けて丁々と擲り始めたが、上靴は運命の神様の如く善悪正邪の差別なく、其所に居合せた凡ての小児の頭へ偏頗〈ヘンパ〉なしに落下するのであつた。また或小説に悪戯小児〈イタズラッコ〉を沢山持つてる母親の居間に、大小の鞭が幾個となく備附てあつて、年齢の長幼と悪戯〈イタズラ〉の大小とに従つて、巧みに鞭の使別〈ツカイワケ〉をするのを敏腕なる母親の誇りとして居ると書いてある。偖て〈サテ〉、斯〈カク〉の如き懲罰を当然受ける資格のある独逸の小児は、如何なる酷い悪戯をして居るかと、一寸と調べて見たが、腕白の男の児が大人の想像も及ばぬ程の思切つた悪戯や性質〈タチ〉の悪い揶揄〈ヤユ〉を演じて打興ずる〈ウチキョウズル〉のは、何所の国も同様で特に独逸に限つた訳でないから、此所には男の児の悪戯は省略し、姫御前〈ヒメゴゼ〉のあられもない悪戯の一例を紹介して置かう。服装からして活潑さうに見える独逸の少女は、悪戯をする点に於て敢て少年に譲らない。エブネル女史は其自叙伝なる『吾が幼年時代』(Meine Kinderjahre)に於て其実歴談を述べて曰く「或年のクリスマスの祭の少し前に、吾家〈ワガヤ〉の少女達が恰かも吾子〈ワガコ〉の様に可愛がつて大切にして居た人形が、突然姿を隠して一個も見当らない。余り不思議だと云つて、大勢の少女が彼方〈アッチ〉を探がし、此方〈コッチ〉を探がし、果ては女中が折角〈セッカク〉整然と片附けて置いた所までほじ繰り廻はし始めたので、女中が一時の方便に嘘を吐いて人形は皆んな窓下に店を出して居る果物商人の小娘が浚つて〈サラッテ〉往つたのだから、家の中を捜したつて見附かる訳がないと云つたので、少女等は怒ることか、怒るまいことか、幾等温順な母親でも小児を奪はれては残忍に成ると云つて、私〔エブネル女史〕を始め少女等は果物商人の小娘に対して残忍なる復讐を遂げることを誓ひ、黒いインキを二階の窓から流して小娘の顔を真黒に塗つて、貴めてもの腹癒〈ハライセ〉にしやうと決心した。私達は西班牙〈スペイン〉のアルマダ艦隊より尚強い必勝の確信を懐いて復讐戦に出懸けたが、頂度アルマダ艦隊と同一の運命に遭遇して、風雪等の自然力を向ふに廻はさねばならぬ羽目になつた。即千五百八十八年には太西洋に於て暴風が起つたやうに私達の出戦の日には風が荒れ軟かい雪の吹雪さへ加つた。私がインキ壺を持つて居る手を窓の外へ差出して、将さに〈マサニ〉復讐に取懸らうとする刹那、一陣の風が吹き来つて、窓翼を押へて居た妹の手から窓翼を奪ひ去つたが、窓から外へ差出して居る手を引込めてインキ壷の墜落を救ふ暇〈イトマ〉もあらせず窓翼は風に呻られて〈ウナラレテ〉直ちに打返へして来た。其所でインキは窓ガラス一面に漲り雨雪に混じて窓台から滴り落つると云ふ為体、私の白魚を並べた様な手の指は黒々とした悲哀の色を以て一面に掩はれて了つた。』