礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

私は私自身が読む為に此書を書いた(山雨楼主人)

2018-04-06 02:40:49 | コラムと名言

◎私は私自身が読む為に此書を書いた(山雨楼主人)

 昨日は、山雨楼主人著『交友七十年』(山雨楼叢書刊行会、一九六二)という本について述べた。
 たしか、二〇〇〇年代に入ってからだと思うが、古書展の目録に、山雨楼主人著『交友六十年』(書画道社、一九五〇)という本があるのを見つけ、注文した。送られてきた本をみると、内容的に、『交友七十年』と重なるところが多いが、収録されている文章などに、若干の違いがある。『交友七十年』は、『交友六十年』を増補・改訂したものであった。
 両者の違いをまとめておく。

『交友六十年』
・発行日 一九五〇年(昭和二五)年一一月二五日
・発行所 書画道社(静岡市西草深町一五四)
・本文四三一ページ、ペーパーバック
・全二十八章(回顧編全二十一章、現代編全七章)

『交友七十年』
・発行日 一九六二年(昭和三七)年一月三一日発行
・発行所 山雨楼叢書刊行会(静岡市西草深町一一五番地)
・本文二段組み四〇二ページ、ハードカバー、函入り
・全三十六章(回顧編全二十九章、現代編全七章)

 本日は、『交友六十年』のほうの「自序」を紹介してみたい。

  自  序
 山に登つて、頂上が見える頃になると、立止つて今歩いて来た道を振り返つて眺めたくなる。人間は将来に夢を失うと、過古〔ママ〕の追憶に楽しみを求める。嬉しかつたこと、悲しかつたこと、時の煙幕を透して見れば総ては美しい走馬燈の様なものだ。人生は古来五十年と相場がきまつて居る、従つて六十年の還暦はお目出度〈オメデタイ〉ことだとされた。他人から見ればそうかも知れないが、本人の身になつて見ると、歩いて来た道を振返つたり、過古の走馬燈を眺めたり、所詮は将来に夢を失つた枯骨〈ココツ〉であることが悲まれる。これが世間普通の老人の考え方であると思う。
 乍然〈シカシナガラ〉『交友六十年』の此書は、恁うした〈ソウシタ〉考え方の下に書いたものでないことを、冒頭に序して置きたい。私は過古及現在の友人達から、学ぶ可き多くのものを与えられて居る。人間の行蔵〈コウゾウ〉は一生修業である、之れでよいと言う時はない、大聖孔子の賢を以てしても、七十にして法〈ノリ〉を越えざる境涯に達したのであるから、我々は棺を掩う〈オオウ〉迄学ぶことを忘れてはならない。犬養木堂〔毅〕は『還時読我書』と言つた。私は私自身が読む為に此書を書いたものであつて、夫れ〈ソレ〉が幸に大方知友の為に、何等か裨益〈ヒエキ〉するところがあれば望外の至幸だと思つて居る。
 私の先輩小泉三申〔策太郎〕は、何事を為すにも命掛けでやつた。命掛けと言うことは必ずしも砲煙弾雨の中に飛び込むことではない。人間に取つて一番大切なものを投出して仕事に掛るという意味であつて、命さえ捨てて掛る以上、名利〈ミョウリ〉の如きは問題でないと云うことである。古来の英雄は年若くして此境地を拓くことが出来た。豊臣秀吉、吉田松蔭〔ママ〕、西郷隆盛、高杉東行〔晋作〕、橋本佐内、比々〈ヒヒ〉皆然りである。然し之れは我々凡物の学んで能はざるものである。そこで私が考えたのは此私の還暦である。私はもう庚寅〈コウイン〉から庚寅え一冊の暦を還したのである、人間として生く可き常命〈ジョウミョウ〉は生きたのである。之れから先の一日々々は謂わば余剰価値である。此余剰価値こそ命掛けの仕事に使つても惜しくないものである。此意味に於て私は発心〈ホッシン〉した。私は此還暦の一線を画して、今日から無我の心境に立ち、世の中の為に命掛けで働いて見ようと言うことである。斯くしてこそ初めて私が此書を著した意義にも叶い、私の還暦にも真のお目出度〈オメデタ〉が生れるのではないかと思う。
 本書に記載した交友名は総て敬称を省略した、これは決して尊敬の念を失した訳でもなければ、殊更に奇を衒つた〈テラッタ〉訳でもない、人間は敬称を省く程、其人物が偉大さ加えて来るものであつて、其点特に御諒恕を乞う次第である。又交友に関する記述も、私が直接に見聞したもの、信頼の出来る筋から資料を得たもの等色々であるが、私は戦災によつて一切の記録を焼失したので、其殆んどが記憶に基いて執筆した。私は若い頃には自から記憶力のよいことを誇りとして、四十代五十代位迄は手帳と言う物を持つたことはないが、最近には其記憶力に自信を失つたので、文中多少の誤差があるかも知れないが、之れは大方識者の御叱正に俟つこととする。又時として私の主観的記述に行過ぎがあると思うが、そこに私の六十年の足跡を印書して置きたい念願も交つて居るので、寛大なお心持で読んで頂きたい。猶、本書は主として郷土中心に書いたものであり、従つて地名なども省略し得る丈け〈ダケ〉省略してあるので、其お心算〈オココロヅモリ〉で御判読をお願する。本書に記載した以外、猶数十、数百の親しい交友が書き残されて居るが、印刷頁数に制限もあつて思うに任せなかつた為、夫れ等の人々に就ては、又適当の機会に筆を執ることがあると思う。
 終りに臨んで、本#の刊行に対し、特に御厚意を寄せられた盟友各位の御芳情を感謝する。
  昭和庚寅〔一九五〇〕十一月十六日還暦之日      山 雨 楼 主 人  敬草

 この「自序」によって、山雨楼主人(村本喜代作)の生年月日が一八九〇年(明治二三)一一月一六日であることがわかる。しかし、その没年がわからない。ご存じの方がいらしたら、ご一報いただければ幸いである。

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