◎穴の熊は必ず一発で仕止めなければいけぬ(小澤清晴)
雑誌『蕗原』の第二巻第二号「山の生活号」(一九三三年一二月)から、竹内利美の「横川山野話―上伊那郡川島村―」を紹介している。本日は、その二回目。竹内利美が紹介している熊の話の話者は、横川の猟師・小澤清晴。
なお、「ぱったり」などの「っ」は、原文のまま。また、原文で傍点が施されている箇所は、太字で代用してある。
二、ぢどりの事
四月の末頃になると陽のめ〈ヒノメ〉もすっかり濃くなって来て、永い間山膚を覆ってゐた雪もだんだん解け始めて来る。かうなると熊も永い冬眠から覚めて穴を出る用意を仕はじめる。先づ穴の周囲へ出て其処ら〈ソコラ〉を歩き廻って、冬の間にすっかり柔かくなって了った蹠〈アシ〉を雪に馴らすと云ふ。春、山に入るとこの足馴しのために、穴の周り三十間〔五五メートル弱〕程の所の雪が綺麗に踏み固められてゐるのをよく見受けるさうである。これを「ぢどり」と猟師達はいふ。もうぢどりのしてある穴の熊は、余程手早く事を運ばぬと逃がしてしまふ事が多いさうである。また足固めをしないうちに穴を襲はて出た熊はすぐ「あかぎれ」になる。かうした熊の足跡か、一ぱいに血の滲んでゐる熊の足跡を春の山では見る事があるさうだ。それから又盛んに栂〈ツガ〉の葉をむしりとっては食べるといふ。冬中何も餌を取らぬ為に、すっかり脂でしめられてゐる腸の中をこれで皆んな下して了ふのだ。熊の出た後の穴の周りには、一面に糞が置かれてあるといふ事である。
三、冬熊の獲り方
熊のからむ程の深山は雪も亦恐ろしく深い。一月二月頃には熊の穴は雪の下一間〔一・八メートル〕も二間もの下に隠されてゐるから、中々見附かるものではない。然し三月に入ると生暖かい風が山を見舞ふ。陽ざしもそれにすっかり濃くなって来て、雪も上下から解けかけてくる。一ゆるみ弛んで雨の降った翌日など、それと思ふ山に入ってゆくと熊の穴の上の雪は、熊の息のぬくもりにむれて薄黒くふすぶれて見えると云ふ。これを犬が嗅ぎ出すのださうである。犬が穴を嗅ぎ出すと、恐ろしく吠えながら雪を蹴散らして穴の口を出す。しかし中の熊は悠々たるもので中中すぐには起きないといふ。今年〔一九三三〕「平造岩」で射った熊などは実に泰然たるものだったさうだ。其処はひどい岩場で穴の口へ登るのもやっとの位だったと云ふ。岩の上側から覗きこんで見ると穴の中は暗くて更に様子が知れなんだ。そこで穴の方の岩へ縄を伝って下りて穴の口をを覗き込んだ。何しろ雪の奥にあるので熊の奴、ゐるには居るらしいがじっと中を見つめてゐると、やうやく暗〈クラヤミ〉に馴れた目に栂の葉が二三枚映る。そしてそれが上下にかすかに動いてゐるといふのだ。熊は向ふむきに寝てゐて、腰のあたりに着いてゐた栂の葉が息をする度に動いてゐるのだった。太い棒切れで尻を突いたがなかなか起きない。そのうちにやっと此方〈コッチ〉へ向いて一声威かしたと云ふ。占た〈シメタ〉と云ふので鉄砲をつめて又覗くと、熊は又向ふを向いて寝て了ってゐる。仕方なしに連れの者に棒で突かせて向直させ様としたが、連れは怖気〈オゾケ〉をふるってか力の入方〈イレカタ〉が怪しいので更に起きない。清さ(清晴氏)はいぢれたくって連れを怒鳴りつけて棒をとり、片手に銃を持ちながら、ぐいぐい突くとやっと又向直ったさうだ。
熊が起きると、穴の口で大きく口を開いてハーッと息を吐きかけて何とも言ひ様のない恐ろしい唸り声を立てゝおどすといふ。それは実に凄いものださうだ。とても上手く〈ウマク〉たとへられぬが、謂はゞ機関車が一度に蒸気を吹き出す時の様な感じで、山響きがするかと思ふ程だと云ふ。余程慣れた者でも頭のしんまでヂーンと寒くなり、体中何処〈ドコ〉といふことなしにむづむづして来、小刻みにふるへ心臓が躍ってどうとも仕様がないさうである。慣れぬ者などはこれに威されて穴の口からまくれ落ちる事もある。熊に落されたなどゝ言ふが、大概はこれに驚いて自分でころげ落ちるのださうだ。
兎に角〈トニカク〉かうして熊の穴を見附けると、其処らから木の枝を集めて大い焚火〈タキビ〉をする。かうして火にあたりながら心臓の躍りを静め、精神統一をするのだと言ふ。煙草でも吸ひながら心を沈め決して焦ってはいけぬ。依頼心や恐怖心が起きたら先づ駄目ださうだ。穴の中の熊は此方で鉄砲を打ちかけぬうちは決して出ない。二時間位穴の周りでかうやってゐても大丈夫だといふ。穴の熊は必ず一発で仕止めなければいけぬ。二発、三発と射つ様では直ぐ組みしかれて了ふ。奴に食はれるか、奴を殺すか二つのうちだ。じっとふるへを止めてから、銃砲を握って穴の口へ向ふ。右の手は強く、左の手は軽くにぎって。
熊の眼は穴の暗がりの中でも美しく青く輝いて見えるといふ。この眼と眼の間をためて引金を引く。そこへ入ると―発でぱったりいく。しかしなかなか油断は出来ない。―発放したら手早く二の玉を込めて、火薬の煙を息で吹き散らしながら中の様子を見定める。熊は死んだ真似もなかなかうまいからそれを警戒するのだ。しかし口から泡を吹き、舌を口から横へダラリと垂してゐたらもう大丈夫ださうである。
雪の中で見附けた熊なら先づ殆ど射ち損ひはない。唯落着いて事を運びさへすればいゝと言ふ。射つ前に祝ひの鉄砲を打ってから始めてもいゝ位のものださうである。
とりあえず、「三」まで紹介したが、長い文章なので、すべてを紹介することはしない。このあとは、適宜、節を選びながら、紹介してゆくことにしたい。とりあえず、明日は話題を変える。