◎本塁打を打ったサミー・ストラングに25ドルの罰金
この間、しばらく、吉田甲子太郎の作品、ないし、功刀俊雄氏の論文についての話題が続いているが、もうしばらく、おつきあいをいただきたい。
近年、教科「道徳」の教材として注目されるに到った吉田甲子太郎の作品「星野君の二塁打」(初出、一九四七年八月)には、「抜け駆けの功名」という要素が含まれている。ところが、この作品の原型となったと思われる「一マイル競走」(初出、一九四六年六月)、ないし「ネコの巣」(『兄弟いとこものがたり』の第三話、初出、一九四七年三月)の送りバントの話のいずれにも、「抜け駆けの功名」という要素が見られない。おそらく吉田甲子太郎は、どこかで、「抜け駆けの功名」のエピソードを仕入れ、これによって「ネコの巣」における「送りバント」の話を改変したのだろう。
だとすれば、吉田甲子太郎は、どこで、その「抜け駆けの功名」のエピソードを仕入れたのか。ここでまた、功刀俊雄氏の論文(二〇〇七、二〇〇八)を引用させていただきたい。功刀氏の論文〝小学校体育科における「知識」領域の指導:教材「星野君の二塁打」の検討〟には、(一)と(二)とがあるが、当該のエピソードについての問題は、(一)の「おわりに」、および(二)の「おわりに」の中で言及されている。本日は、そのうち、(一)の「おわりに」の全文と、これに対応する注を紹介する。
おわりに
本稿では、「星野君の二塁打」が執筆される直前の〔吉田〕甲子太郎の作品中にスポーツにおける犠牲の精神を取り上げたものがあることに着目し、これらの作品、「兄弟いとこものがたり」及び「一マイル競走」と「星野君の二塁打」を比較しながら、「星野君の二塁打」の執筆にアメリカの児童文学作品の影響があったことを明らかにした。しかしながら、この結論はあくまでも推測であって、これをより確かなものとするためには、「一マイル競走」の原作(カークの作品)の発見と、それと甲子太郎の「一マイル競走」との比較という作業が必要であることは言うまでもないことである。この点に関しては、「一マイル競走」を再録した『空に浮かぶ騎士』の「まえがき」で〔吉田〕甲子太郎が、本書に収めたものには「戦後にアメリカの民間教育情報部から提供されたというような新しい作品もあります【*20】」と述べていることに注目すべきであろう。というのは、もし「一マイル競走」がこうした作品の一つであるならば、この作品の訳出と紹介は占領下の教育政策の一環ということになる可能性が大きいからである。
さらに、「星野君の二塁打」へのアメリカの影響という点では次のことにも言及しておくべきであろう。ヒット・エンド・ランやスクイズ、カット・オフ・プレイなどの新戦法をあみだし後に「近代野球の開拓者【*21】」と称せられたニューヨーク・ジャイアンツのジョン・マグロー〔John McGraw〕監督が1905年のある試合で自分が出した犠牲バントの指示を無視してホームランを放ち試合を勝利に導いたサミー・ストラング〔Sammy Strang〕に対して25ドルの罰金を科した、という逸話がある【*22】。この逸話は遅くとも1920年代半ばには我が国でも知られていたようである【*23】。甲子太郎がもしこの逸話を知っていたならば、「星野君の二塁打」の監督のモデルはマグローであったという可能性も否定できないし、「約束破り」に対する制裁もアメリカ起源であったのかもしれないのである。
「一マイル競走」と占領政策、あるいはマグローと甲子太郎の接点、これらの解明は現在の筆者〔功刀俊雄〕には具体的な展望のない今後の課題である。続編〔功刀論文(二)〕では、「星野君の二塁打」のテキストの変遷を追跡しながら、この作品に関する甲子太郎自身の解説を読むことにする。「星野君の二塁打」が最初に公表されたのは、日本国憲法と教育基本法の施行(前者が1947年5月、後者は1947年3月)の直後のことであった。甲子太郎は、こうした戦後の出発にあたって、次代を担う日本の子どもたちに何を伝えようとしたのであろうか。
〔注〕
*21 ジョセフ・ダーソー〔Joseph Durso〕著(宮川毅訳)『近代野球の開拓者 ジョン・マグロー伝』ベースボール・マガジン社、1974年。
*22 この逸話はマグロー自身が下記の自伝で語ったものである。犠牲バントの指示が出される場面は、ノーアウト、ランナー一・二塁であったとされているが、イニングは分からない。John J. McGraw, My Thirty Years in Baseball, New York: Boni and Liveright. 1923, pp. 11- 12.
*23 本稿で利用したマグローの自伝(同上書)は北海道大学附属図書館の蔵書であるが、これには1924年〔大正一三〕1月26日の受け入れ日が記載されている。このマグローの自伝を出典として明示しているものに橋戸信〈ハシド・シン〉『緑蔭球話』(宝文館、1928年)がある。ただしこれには例の逸話は載せられていない。ちなみに、マグローに多くの紙数を当てている鈴木惣太郎『米国の野球』(三彩社、1929年)もこの逸話に触れていないが、これには、「スツラング〔Strang〕が専門のピンチヒツターの元祖であり、マグローが其の最初の発案者である」とあり、それは1905年のことであったとされている(176頁)。マグロー自伝の逸話でもストラングはピンチヒッターであった。なお、筆者がこの逸話に最初に接したのは沢田謙〈サワダ・ケン〉『世界の野球王 ベーブ・ルース』(偕成社、1954年)で、該当の箇所(105-107頁)には「本塁打をうつて罰金」の小見出しが付けられている。沢田には1949年の『野球王 ベーブ・ルース』(偕成社)もあるが、これは筆者未見である。