◎初代・古今亭しん生と「九州吹戻し」
本日は、野村無名庵著『本朝話人伝』(協栄出版社、一九四四)から、「名人しん生 (一)」という文章を紹介してみたい。ここでいう「名人しん生」とは、初代の古今亭しん生〈ココンテイ・シンショウ〉のことである。
著者の野村無名庵(一九八八~一九四五)は落語評論家で、三代目・古今亭今輔に弟子入りしたことがある。一九四五年(昭和二〇)五月二五日の山の手大空襲で死亡したという(ウィキペディア「野村無名庵」)。
『本朝話人伝』は、戦争末期に出た本であるが、概して戦時色は薄い。冒頭には、当局に配慮しているような言葉も見られるが、読者に対して戦意を煽ったりするような文言はない。少なくとも本文に関しては、戦時色は皆無である。のちに本書は、中公文庫に入ったというが、未見。文章は平易にして明晰。多くの漢字にルビが振られていたが、その一部を【 】の形で再現した。〈 〉は、引用者による読みである。
名人しん生 (一)
初代〔金原亭〕馬生〈バショウ〉の門人で鈴々舎馬風【れいれいしやばふう】といふ、これはあまり大家【たいか】でも名人でも大看板〈オオカンバン〉でも無い中くらいの落語家が、ある席で「九州吹戻し」といふ、一席物をやつて居りました。近頃はあまり演【や】る者もありませんが、これは喜之助【きのすけ】といふ男が肥後の熊本から江戸へ帰る途中、大難風に出逢ひ、玄海洋〈ゲンカイナダ〉から薩摩の桜島へ、百二十里吹戻される話であります。然し何の芸でも同じですが、演者が巧くないと引立ちません。これを楽屋で聞いて居りましたのが、初代の古今亭しん生であります。しん生はどこから出たかと申しますと、前に述べました初代の三遊亭円生〈サンユウテイ・エンショウ〉に、多勢【おほぜい】弟子もあつた中で、円太〈エンタ〉と円蔵【ゑんざう】の二人が二代目円生たるべき候補者だつたところ、その二代目は円蔵がつぐ事になりました。面白からず思つた円太は、とうとう師匠のところを飛び出し、旅から旅へ流浪の人となりました末、七八年を経て弘化四年〔一八四七〕の秋、江戸へ帰つて来まして四谷の忍原亭〈オシハラテイ〉へ、古今亭新生【しんしやう】といふ名で看板をあげ、その後真生と文字を改め、更にしん生と書くやうになつた。これが即ち初代の古今亭しん生であります。この人俗称を清吉と申し小玉屋権左衛門といふ商家に、丁稚奉公をしてゐましたが、天性大の落語好きで、円生の門へ入りました次第、そのしん生は二代目円生に擬せられてゐた位ですから、勿論話は巧かつたところへ、七年間の旅修行で、苦労もした代りには鍛錬も出来みがきが掛つて一層上達、モウこの時代には落語も以前のやうな小噺【こばなし】でなく、話の風も一変し一席の長いものにまとまつた落語【らくご】となつてゐましたが、同時に続き物の人情話も歓迎され、真打〈シンウチ〉は必らずこの続き話をするものと極つてゐた有様、ところがしん生はその人情噺【にんじやうばなし】に妙を得てゐたのですから、忽ち名声隆々として上り、押しも押されもせぬ大看板【おうかんばん】とはなつたのであります。そのしん生が馬風の九州吹戻しを聞き、ぢつと考へて居りましたが、やがて下りて来た馬風に向つて、
「何と馬風さん、あの話を私に譲つてくれないかね。如何にも面白く出来た話だが、失礼ながら馬風さん、お前さんには向かないと思ふ。私にゆづつて演【や】らせて呉れゝば、もつと物にする事も出来やうと思ふが……」
と交渉した。馬風は相手が大先輩のしん生だから、一も二もなく承諾して、
「大体私には、荷の勝ち過ぎてゐることもよく分つて居りましたが、師匠がやつて下されば結構でございます」
「さうかえ、では譲つて貰はふが、代はいくら上げやうねえ」
「イエいくらにも何にも、そんな御心配には及びません」
「イヤイヤさうでない。兎に角〈トニカク〉これを家業の種にするのだから、無代【たゞ】では私の気が済まない。兎に角気は心だから、軽少だが納めて下さい」
と金千匹【びき】差出しました。唯今では、千匹などといつても通用しませんが、百匹が一分即ち二十五銭ですから千匹は二円五十銭、もつとも今日でも、華族さまなど格式いかめしき旧家では、恭々しく紙包【かみづつみ】にして相変らず、金一千匹などと、立派な文字も鹿爪【しかつめ】らしく、奉書水引〈ミズヒキ〉立派型にして出すところもあるそうです。粗々【そゝ】かしい奴は千円下すつたのかとびつくり仰天、大喜びであけて見ると五十銭サツ五枚でがつかりしたりする事もあると聞きましたが、何は兎【と】もあれその頃の二両二分ですから相当の額だつたに違ひありません。
「折角ですから、頂いて置きませう」
と馬風も喜んでこれを納めましたが、かうして完全に取引が済んで見れば、しん生は其晩から、自分の物として口演してもいゝのですが、そこが昔の芸人軽率なことはいたしません。これから今日でいふ演出の工夫にとりかゝり苦心惨憺、寄席を休んでわざわざ下総〈シモウサ〉の銚子へ出かけました、今でも汽車で四時間かゝり、往復すれば一日仕事、況んや〈イワンヤ〉昔のことですから、船で行つても容易ではありません。しん生は銚子へつくと、海岸の漁村へ泊り、犬吠岬【いぬばうみさき】の巌頭に立つては、毎日毎日海を眺めて居りました。
○九州吹戻し 柳橋の裏河岸〈ウラガシ〉にきたり喜之助といふ男放蕩の揚句、借金の為め江戸を逃出し、流れ流れて肥後の江戸屋といへる旅籠〈ハタゴ〉の主人に助けられ、元来器用ものとて、料理の手伝ひ、歌三味〔唄・三味線〕の指南、座敷に出て取巻〔ご機嫌とり〕もなせし為、相当の貰ひもあり、足掛四年百両程の蓄財を得たるにぞ、江戸なつかしさに帰心矢の如く、取りて出立〈シュッタツ〉せしも、途中にて道に迷ひ、漸く江戸行きの便船に乗せて貰ひしが、大難風に出あひ、桜島へ吹きつけらる。即ち喜之助は主人の注意を聞かず、帰りを急ぎすぎし為め、百二十里吹戻されしといふ筋なるが、此男の浮沈を始め、出立前夜嬉しさの余りの空想独白、沿岸の風光説明等、達弁を要するむづかしき話なり。
文中、「大難風」の読みは、おそらく「おおしけ」だと思うが、断定は避ける。注に「柳橋」とあるが、江戸時代は花街として知られていた地名である。「九州吹戻し」の主人公「きたり喜之助」は、この柳橋で、いわゆる「たいこもち」をしていたのであろう。