礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

十年かけてドイツの大家の作品を通読した

2018-04-23 01:31:30 | コラムと名言

◎十年かけてドイツの大家の作品を通読した

 この間しばらく、青木昌吉著の『独逸文学と其国民思想』(春陽堂、一九二四)という本を紹介してきた。では、この本の著者・青木昌吉〈アオキ・ショウキチ〉とは、どういう人物か。ウィキペディアには「青木昌吉」の項があるが、それほど詳しい説明はない。
 そこで、本日は、『独逸文学と其国民思想』の「序」を紹介してみたい。これを読むと、青木は、もともとドイツ語学者であり、ドイツ語文法を研究する必要上、当時のドイツ文学=「十九世紀のドイツ文学」を閲読しはじめたことがわかる。

 数年前の夏文科大学で公開講義が催ふされた時、私は「十九世紀の独逸の文学に現はれたる国民思想」と云ふ題目で講演を試みました。其際作つた原稿が本書の前身であります。私は其当時から遡つて大凡〈オオヨソ〉十年間は、専ら独逸語学の方面の研究に従事して居ました。私は文法書に就いて抽象的の規則を研究する普通の方法を避け、直接大家の作品を渉猟して独逸の文学に実際行はれて居る法則を研究する方法を取つたので、其当時私が精力を傾注したのは、十九世紀の独逸の戯曲小説の閲読でありました。十年間此研究法を継続して居る内に、私は十九世紀の独逸の三大戯曲家クライスト〔Heinrich von Kleist〕、グリルパルツエル〔Franz Grillparzer〕、へツべル〔Friedrich Hebbel〕の作品は勿論、十九世紀 独逸の小説の大家シユピールハーゲン〔Friedrich Spielhagen〕、ラーベー〔Wilhelm Raabe〕、エブネル・フオン・エツシエンバツハ〔Marie von Ebner-Eschenbach〕、ホンターネ〔Theodor Fontane〕等の小説は大抵読尽して了ひました。戯曲の方は数に於ても量に於ても、多寡が知れて思ますが、小説の方は浩瀚大冊のものが多く一部の小説が一冊千頁以上もの二三册から成つてるものが稀ではありません。夫故〈ソレユエ〉一人の大家の作品を悉く読破するにも仲々多くの時間を要します。況して〈マシテ〉 一世紀間に輩出した大家の作品を通読することは容易な業〈ワザ〉ではありませんが、私は暇に飽かして此等の戯曲小説の閲読に耽つて居る中に、独逸の国民思想とも云ふべき或物が朧げ〈オボロゲ〉ながら脳裡に浮んで来ましたので、手当次第に読む書物の余白へ、其折々に起る感想を書入れて置きまして、何時か一度は此断片的思想を纏めて見やうと思て居る矢先に公開講義の催〈モヨオシ〉があつて、当時の委員藤岡教授から講演を頼まれましたので、十年読書の結果を曲りなりに纏めたのであります。本書の起源が前述の如くでありますから、研究に欠陥不備があらうとは思ひますが、態ざと〈ワザト〉作つたものでなく、自然に出来た作品なることを諒として閲読し給はらんこと願ふ次第であります。
 大正十三年六月        著  者

 青木は、十九世紀ドイツの大家の作品を通読するのに、十年間をかけたと言っている。よく考えると、これは大変なことである。今日の(二十一世紀の)ドイツ文学者、ドイツ語学者で、二十世紀のドイツの大家の作品は、だいたい通読していると言える人がどれだけいるだろうか)。青木昌吉という学者は、まさにドイツ人に匹敵する「堅忍」精神の持ち主だったようである。
 文中に、「文科大学」とあるが、これは、東京帝国大学文学部の旧称。一八八六年(明治一九)三月から一八九七年(明治三〇)六月までは、帝国大学文科大学と呼ばれ、一八九七年六月から一九一九年(大正八)四月までは、東京帝国大学文科大学と呼ばれていた。青木昌吉が公開講義をおこなった年は不明だが、その時点では、まだ、「東京帝国大学文科大学」の旧称が用いられていたのかもしれない。
 また、「藤岡教授」とあるのは、たぶん、言語学者の藤岡勝二のことであろう。一九〇五年(明治三八)に東京帝国大学文科大学助教授、一九一〇年(明治四三)に同教授。 
『独逸文学と其国民思想』の紹介は、このあとも続けようと思っているが、とりあえず明日は、話題を変える。

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