◎しん生の九州吹戻しは真似も出来ない(円朝)
昨日は、野村無名庵著『本朝話人伝』(協栄出版社、一九四四)から、「名人しん生 (一)」という文章を紹介した。本日は、その続編「名人しん生 (二)」を、同じ本から紹介する。
原文にあったルビの一部を、【 】の形で再現した。〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による注である。
名人しん生 (二)
御案内の如く銚子の犬吠岬は有名の絶勝でありまして、奇石怪巌海中に起伏蟠踞〈バンキョ〉し、一望万里の太平洋から寄せては返す激浪怒涛【げきらうどたう】、山より高き大波の、崩るゝ如く襲つて来るやつが、断崖絶壁に打つかつて〈ブツカッテ〉、狂瀾忽ち砕け散れば、巌に激する水煙り、雪か霰〈アラレ〉か白玉の、飛沫躍動する壮観偉観、到底筆舌の名状し尽せるものではなく、大燈台が常に航海の船舶へ、警告と便宜を与へつゝ、その安穏を守つてゐる程の場所でありますから、物凄くも亦恐ろしき光景は、其実際に臨んだものでなけれは、想像しても分りません。さればこそ〔古今亭〕しん生は、わざわざ此処を選んで実見に出かけ、毎日毎日巌頭に立つては、轟き渡る風浪【ふうろう】の音に、雄大の気分を養ひつゝ、千態万状窮【きはま】りなき、女浪男浪〈メナミ・オナミ〉が変化の様を、仔細に観察してはその形容を、あれかこれかと研究して居りました。そして漁夫に就ては暴風雨のときの実況を尋ねたり、難船難破の経験談を聞いたりした。何でこんな事をしたかと申しますと、即ち、しん生はこれによつて、九州吹戻しの主人公たるきたり喜之助が、熊本を立つての後、薩摩の桜島まで、百里の海上を吹戻されるといふ、此物語の山になる肝腎の条【くだり】の、演出に使ふ為めだつたのでありました。分筆の士も大ていは、机の上の想像で、創作するのが通例でありますのに、卑近の舌耕を業とするしん生が、こんな苦心を積んで表現に資したといふ芸術的努力はまことに学ぶべく尊敬すべき精神だと存じます。たゞ見れば何の苦もなき水鳥【みづとり】の、足にひまなき我が思ひかなとやら、凡そ一事一業を成就したものの裏面【りめん】には、大なり小なり、必ずや人知れぬ苦労の伴はぬものはありませぬ。しん生は〔鈴々舎〕馬風に対し必らず私が物にするからと約束した言責〈ゲンセキ〉を重んじ、これ程の苦労をして、研鑽に研鑽を積み、推敲に推敲を重ねて、完全に自家薬籠【じかやくらう】中の物とした九州吹戻しを、江戸へ帰つて披露口演しましたところ、さらぬだに名人のしん生が、特に魂を入れての芸術、これが受けなからう筈もありません。期せずして高評湧くが如く、しん生の九州吹戻しは、忽ちに極め附きのものになり、「明晩九州吹戻し」というビラを辻々に張出し、これを撒きビラと申しますが、この広告をすると必らず大入満員になること極つてゐたと申じます。芸もこゝ迄行き度い〈タイ〉もので、即ち苦心と努力は立派に報ゐられた次第、後の名人〔三遊亭〕円朝も、
「しん生の九州吹戻しは真似も出来ない」
といつて、自分もやらず、弟子にもやらせなかつたと聞いて居ります。総体にこのしん生は、人情噺の巧【うま】かつた人で、この吹戻しや「お富与三郎」「小猿七之助〈コザル・シチノスケ〉」のやうな、艶つぽくて波瀾に富む世俗の話を得意とし、一時はその名声江戸の落語界を風靡【ふうび】して、八丁荒しのしん生とさへ言はれた程でありました。その演出について工風【くふう】をこらした熱心は、吹戻し場合【ばあひ】と同様、何んでも同じことで、小猿七之助の話には、七之助の父七五郎が無論出ます。この七五郎は網打ちですから、しん生は網打ちの事も、一通り覚へてゐなくては、この話が出来ないとあつて、当時有名な網打ちとして知られました柳橋の上州屋慶次といふ人について親しくいろいろと教へを受けて高座にかけましたところ、一人の老人が楽屋にたづねて来て、
「さすがに師匠、心得たものだね。然し、網を打つところはあれでいゝが、上げるところが違つてゐるよ。四ひろ半〈ヨヒロハン〉の網は、手ぐる〈タグル〉時に腕へかけて丸めるものではない。あれは網の先を順々に畳んで上げなくてはいけません。又、楫子【かぢこ】が、櫓〈ロ〉を押しながら後方の手で松明【たいまつ】をかざしてゐるところ、あれは四方【あたり】がモヤで暗い為め、松明をつけるのだから網打ちの目の先きへ出しては仕事が出来ない。網打ちの頭の方でかざして居るものですよ」と親切に教へでくれましたので、しん生はその通りに演じましたところ、大に好評を博したといひます。何しろ多勢〈オオゼイ〉の聴衆【きやく】の中にはどんな専門家が聞いて居るのか分らないのですから、迂【う】つかりしたことは話せません。不断の研究が大切といふことになります。しん生はその用意に万全を尽したと同時に、演出の上にも、細かい注意や工風をこらしたさうで、例へばおとみ与三郎を話して、与三郎が島破りにかゝる時などは、その五六日前から、わざと鬚を剃らずに伸ばして置き、着附も薄鼠色のものを用ひて、如何にも破獄者【はごくしや】らしい気分を出したり、又夜中のことを話す時は、左右の燭台〈ショクダイ〉へ立てた蝋燭の芯を切らずに薄暗くして話し、いよいよ夜が明けるといふ時に初めて芯を切つて高座を明るくするといふやうな具合、大袈裟に申せば話の中へ舞台照明を応用するやうな技巧を弄して、一段の趣を添へたと申すこと、この人俳名〈ハイミョウ〉を寿耕といつて風雅の道も心得、初めは浅草、後に本所番場〈ホンジョ・バンバ〉、薬研堀【やげんぼり】等に住んでゐましたが、安政三年十二月二十六日〔一八五七年一月二一日〕歿し、本所番場本久寺に葬り法名〈ホウミョウ〉古今院真生日清信士、行年【ぎやうねん】時に四十八でありました。
文中に、「八丁荒し」という言葉があるが、これは、「周囲八丁の寄席の客を奪う」という意味だという。また、「本所番場本久寺」とは、墨田区東駒形に現存する照法院本久寺(日蓮宗)のことである。