礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

明治天皇、晋の予譲の故事を引いて山県有朋を戒める

2018-04-04 00:33:04 | コラムと名言

◎明治天皇、晋の予譲の故事を引いて山県有朋を戒める

 月刊誌『うわさ』通巻一六八号(一九六九年八月)から、山雨楼主人(村本喜代作)による「宝珠荘の偉人②」という文章を紹介しいる。本日は、その四回目(最後)。昨日、紹介した箇所のあと、改行せずに、次のように続く。

 田中の皇室と国民とに関する考え方は、こんな風であったから、明治天皇には深く信任されたが、十一年の宮廷生活中二度ほど叱られたことがあると語った。
 その一度は、山県有朋〈ヤマガタ・アリトモ〉に頼まれて明治天皇に色紙を書いて貰ってやった。すると山県がこれを表装するのに是非着古した御衣〈ギョイ〉の布地が欲しいというので、田中がそのことを取次ぐと、色を成した陛下が、
「田中、お前は晋の予譲が衣を裂くという古事を知っているであろう」と言われたので、田中は恐れ入って陳謝する外はなかった。これは明治天皇が山県の増長を戒めるために、殊さら立腹したものであろう。二度目に叱られたのは、晩年の陛下が兎角〈トカク〉健康が勝れなかったため、侍医は盛んに転地療養をお勧めしたが、頑として承認しない。そこで侍医頭〈ジイノカミ〉から田中に話しがあったので、陛下の一番お好きなところだったら転地するかも知れぬと考え、
「京都の御所へ転地なされては……」と進言した。この時も大帝は急に不気嫌になって、
「田中、お前はわしが京都の御所が好きだということをよく知っていて、わしに京都へ転地せよと勧めるとは何事だ。日々重大なる国務の生ずる今日、わしが好きな京都へ行ったら、自然長く滞在するようになる。それでは国民に相済まぬと思うから、わしは転地を承認しないのだ。お前にはこの気持が判らぬかッ」と言われ、田中は眼頭を熱くして恐れ入った。
 後にも先きにも、叱られたのはこの二回だけであるという。岩淵の古渓荘を造った時、田中の岩淵御殿と称して、その豪華な邸園は天下の物議を醸したが、私がそのことについて田中に尋ねたところ
「あれは僕の宮廷生活が永かったので、さぞ疲れたであろう、何処か〈ドコカ〉よいところがあったら別邸を造ったらどうかと、天子様(明治天皇)からお話があった。そこで僕は平素橘南渓〈タチバナ・ナンケイ〉の東遊記を読んで岩淵の富士というものに執着を持っており、東海道を列車で往復するたびに心にかけていたので、早速岩淵に来て彼処〈アソコ〉に別邸を造ることにしたが、庭園敷地から邸宅間取りまで一々細かく設計したものを天子様にお目に掛けたところ、それは結構だとお喜び下さったので安心して仕事に取掛ったが、世間ではソンなことは知らぬから、田中が勝手に御料林を伐って〈キッテ〉御殿を造ったように言われた。実に迷惑千万な話だ」と説明していた。
 ところが私はその古渓荘の方は知らない。私が田中と交際するようになってからは、蒲原〈カンバラ〉の宝珠荘にいて岩淵へは行かない。古渓荘に行かぬのかについても尋ねたが、田中は不快な表情をしただけで答えなかった。後に消息通に聞いたところによると、田中は古渓荘を造って岩淵に住んでから、相当富士川町〈フジカワチョウ〉の公共事業に協力したにも拘らず、大正七年〔一九一八〕八月の米騒動の時、群集の一隊は古渓荘の門前に押寄せて口々にわめき立て
「猅々爺〈ヒヒジイ〉出て来いッ」などと罵り邸内に石を投げ込んだりして乱暴した。田中は黙って群集の退散するのを待っていたが、時刻の移るに従って人数は刻々と増加し、少数の警察官ではどうすることもできなかった。すると突然大玄関の扉が開いて、煌々たる電燈の下に立出でた田中は、黒紋付に仙台平〈センダイヒラ〉の袴をはいた正装で、白襷に袴のももだち〔股立〕をとり、九尺柄の大身〈オオミ〉の槍の鞘を払って、突然古武士の如き風貌を示し、玄関先から大声を発して、
「田中の屋敷に一歩でも踏込んで見よ。この槍先で剌殺すぞッ」と怒鳴った。これを垣間見た群集はその威厳に圧倒されて、ワーッと叫びながら逃げ去ったというが、田中はその翌日蒲原に来て、かねてから眼をつけていた狸沢一帯の約五千坪を手に入れ、此処に宝珠荘を造って移り住んだのだということである。田中が蒲原に移住すると、宝珠荘の隣地にある郷社の社殿を改築したいというので、町の有志が寄附金を貰いに行った。すると田中が、
「話は判ったが、一体隣りの神様と私とは、どちらが豪いのか、私は正二位勲一等だが……」と言った。これには有志連中も閉口して返事ができなかった。田中はたたみかけて、
「目上の者が目下の神様に社殿を造ってやるのも変じゃろうがナ」と笑ったので、一同ホウホウの体で引き下ったという笑話がある。思うにこれは無闇と寄附金集めをする田舎の風習に対して、頂門の一針を与えたのであろう。

 この部分は、ふたつの点で、注意して読まなければならない。第一に、田中光顕は、別邸を造った理由として、明治天皇から、「さぞ疲れたであろう、何処かよいところがあったら別邸を造ったらどうか」と言われたことを挙げている。これは、別邸を造った理由ではあるかもしれないが、政界から「引退」した理由ではない。田中が政界から引退したのは、明治天皇から、「さぞ疲れたであろう」という言葉をかけられたからではない。小林孝子との結婚など、身辺のスキャンダルが噂されたことが理由であって、そうしたスキャンダルには、「岩淵御殿」の造営も含まれていたと考えられる。
 なお、村本喜代作の語るところでは、乃木希典の遺書に「君側の奸」とあったのは、田中光顕を暗示したものだとする噂が、当時、流れたという(三月二七日のコラム「我れ再び函嶺を越えず(田中光顕)」を参照)。
 第二に、明治天皇が、「山県の増長」を快く思っていなかったことがわかる貴重なエピソードが紹介されていることである。この時、明治天皇が、「晋の予譲」の故事を引いたのが史実だとすると、これは明治天皇の教養と機智を示すエピソードであり、その意味でも、これは貴重な史料と言える。

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コメント (1)
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