◎山雨楼主人著『交友七十年』(1962)について
山雨楼主人著『交友七十年』(山雨楼叢書刊行会、一九六二)という本がある。山雨楼主人とは、静岡市の「政教社」を拠点に活躍したジャーナリスト・村本喜代作〈ムラモト・キヨサク〉の筆名である。
あまり知られていない本である。引用されることも、ほとんどない。しかし、実に興味深い本であって、私見によれば、史料としての価値も高い。
この本を私が入手したのは、一九九〇年代の初めだったと思う。読んでみて、たちまち、その世界に引き込まれた。特に「宝珠荘の偉人」という章が印象的だった。
一九九〇年代の後半、私は、『大津事件と明治天皇』(批評社、一九九八)の執筆に着手していた。このとき、明治天皇が山県有朋の増長を戒めたという話が、『交友七十年』に出てきたことを思い出し、さっそく、これを援用した。
以下に、『大津事件と明治天皇』の第八章「山県有朋」から、「明治天皇と山県有朋」の節を引いてみたい。
明治天皇と山県有朋
明治天皇が、元老山県有朋と不仲であったという話は有名である。たとえば、小川金男の『宮廷』には、次のような話が載っている。
《山県元帥は明治陛下にはあまり信任されなかつたように思われる。信任という言葉には語弊があるが、あまり御好感をもたれていなかつたように思われる。それは伊藤公が朝鮮総監になつて枢密院謙長の席を去つたとき、そのあとがまに山県元帥が坐つたのであるが、私の記憶では、それまでは欠かさず臨御になつていた毎週行われる枢密院の定例会議に、明治陛下はあまりお出ましにならなくなつた。もつとも大して御下問になるようなこともなかつたのであろうが、それにしては伊藤公が朝鮮から帰つてきて、元帥にかわつて再び枢府の議長になると、またかゝさず臨御されるようになつたのは、どう解釈すべきであろうか。 〈同書二一八ページ〉 》
また、村本喜代作の『交友七十年』(一九六二、山雨楼叢書刊行会)には、元宮内大臣の田中光顕から聞いた話として、次のような秘話が紹介されている。
《田中の皇室と国民とに関する考え方はこんな風であつたから、明治天皇には深く信任されたが、十一年の宮廷生活中二度ほど叱られたことがあると語つた。その一度は山県有朋に頼まれて明治天皇に色紙を書いて貰つてやつた。すると山県がこれを表装するのに是非着古した御衣の布地が欲しいというので、田中がそのことを取次ぐと、色を成した陛下が、
「田中お前は晋の予譲が衣を裂くという古事を知つているであろう」と言われたので、田中は恐れ入つて陳謝する外はなかつた。これは明治天皇が山県の増長を戒めるために、殊さら立腹したものであろう。 〈同書一三五~六ページ〉 》
山県の所望に対して、「晋の予譲」の故事を持ち出すのは只事ではない。【*5】明治天皇がいかに山県を嫌っていたか、また日頃山県が、明治天皇に対していかに不遜な態度をとっていたかを推察させるエピソードである。【*6】
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*5 晋の予譲は、趙襄子に復讐しようとして捕えられた。せめてもの願いと、趙襄子の着物をもらってこれに切りつけ、そののちに自害した(史記・刺客伝)。すなわち天皇は、山県に対し「衣を裂く」ということの重大な意味を教え、その増長を戒めたのである。
*6 山県が天皇(皇室)に対して、いかに「不遜」であったかについては、かつて拙著『史疑 幻の家康論』(一九九九、批評社)の中で触れたことがある。
村本喜代作は、『交友七十年』を出版する前に、同じく山雨楼主人の筆名で、『交友六十年』(書画道社、一九五〇)という本を出しているが、これについては次回。