◎吉田甲子太郎「一マイル競走」(1946)について
昨日の続きである。功刀俊雄氏の論文二編(二〇〇七、二〇〇八)によれば、「星野君の二塁打」の作者・吉田甲子太郎は、この作品に先立って、「一マイル競走」という作品を発表しているという。初出は、雑誌『少年クラブ』の第三三巻第六号(一九四六年六月)である。
功刀論文によれば、この作品の内容は次の通りである。以下は、功刀論文〔2007〕からの引用。
主人公のエルトンは、ある選手権大会(対校競技会とも読める)の優勝を決する一マイル競走に自分の学校を代表して出場する予定であった。そのために長い間練習を続けてきたエルトンは一着になる自信があった。しかし、競技の数日前に彼は監督からチーム・メイトのデンティを一着にさせるために犠牲になって敵の選手をひきずる役を命じられる。勝つことを目的に練習してきたエルトンは勝とうとしてはいけないとの監督の命令に悶々とする。しかし、学校の勝利のために「おまへが、みごとに負けるのを見にいきます」との父の手紙を受け取ったエルトンは、監督の命令どおりに犠牲となることを決心して競技に臨む。競技当日、エルトンは作戦どおりに敵の選手二人を引っ張って疲れさせることに成功する。しかし、最後の一周というときに、後を振り向いたエルトンには敵の選手二人は目に入ったが、ついてきているはずのデンティの姿が見えない。エルトンはもはや疲れ切っている。「敵は、ぐんぐん、せまってくる。」エルトンは、疲れて意識が朦朧とする中、最後の力を振り絞って走りぬき決勝のテープを切る。その直後に二着でゴールした人を見てエルトンは自分の目を疑った。落伍したかと思われたデンティだったのである。こうしてエルトンのチームは完全な勝利を収め、彼はこの日の英雄となったのである。
以上が作品のあらすじである。リアリティーがあるかどうかは別にして、なかなか面白い作品である。鳥越はこの作品を次のように解説している。「この物語には、どんでん返しが二度も用意されている。まず、主人公のエルトンは、監督の命令で敵の選手を疲労させるおとりの役を命ぜられる。彼は不満ではあるが、チームのため、学校のためにその作戦を忠実に実行する。ところが、本命の選手のデンティが、いつのまにか落伍していることに気づく。ここが第一段のどんでん返しである。/さてそこで、エルトンは疲れた体にむちうって、何とかゴールまでがんばり通す。意識もたえだえに決勝のテープを切ったとき、意外にも二着に入ったのはデンティであった。これが第二段のどんでん返しである。/このように二段がまえの意外性が用意されていて、短編でありながら重量感のあるみごとな作品に構成されているが、その過程に、チームのため学校のために縁の下の力持ち的なぎせいに甘んじる気持ち、監督の作戦に自己の不満を押さえて規律を守る気持ち、本命の選手が倒れたとわかって最後まで力をふりしぼるがんばりと勇気、といったような主題が一本強いしんを通している。」
ここで、「鳥越」とあるのは、『文学の本だな 愛と勇気・真実と平和の物語 中学編 第1』(国土社、一九六三)の編者のひとり鳥越信〈トリゴエ・シン〉のことである(同書は、鳥越信と沢田啓輔の共編)。
この「一マイル競走」という作品の存在は、功刀論文を読んで、初めて知ったが、なかなか良い話だと思う。その内容は、どことなく「星野君の二塁打」(初出、一九四七年八月)に似ている。ただし、印象は、「星野君」よりも、はるかに、爽やかである。おそらくそれは、「一マイル」のエルトンには、「抜け駆けの功名」という気持ちがないからであろう。
学校教育の教材としては、「星野君」より、「一マイル」のほうずっと優れているように思うが、いかがであろうか。
ところで、功刀論文によれば、「一マイル競走」は、吉田甲子太郎のオリジナルではなく、その「原作」があるらしい。これについては、次回。