◎正徳4年から使われていた小柳亭の釈台
一昨日および昨日、野村無名庵著『本朝話人伝』(協栄出版社、一九四四)から、「名人しん生 (一)」、そして「名人しん生 (二)」という文章を紹介した。
この本で野村無名庵〈ムメイアン〉は、馬場文耕、赤松瑞龍、立川焉馬〈タテカワ・エンバ〉を初めとして、多くの「話人」(講談師、落語家)の伝記、逸話を紹介している。順序が前後したが、本日は、本書の冒頭(ただし、目次のあと)に置かれている「巻頭に一言」という文章を紹介してみたい。
原文では、ルビが多用されているが、その一部を、【 】の形で再現した。〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による注である。
本 朝 話 人 伝 野 村 無 名 庵
巻頭に一言
江戸が東京となつて更に大東京に拡がり、東京都と発展して、大東亜、否【いな】八紘一宇の中心地にならうといふ時の勢ひ、これに伴って何事にも浮沈消長は免れがたく新聞雑誌或は単行本の速記物やラジオの放送によつて、読むだけの講談聞くだけの講談は、大に普及発達いたしましたが、反対にその本元【ほんもと】たる、演者を見たり聞いたりして味ふ定席〈ジョウセキ〉の講談は却つて振はず、講談の席即ち講釈場〈コウシャクバ〉は都内に唯の二三軒といふ、空前のさびれ方を示すに至りましたこと、当業者の遺憾も嘸【さぞ】かしと同情されます。もつとも数の少なくなつたのは、講釈場ばかりでなく、色物〈イロモノ〉はじめ其他の寄席【よせ】といふ寄席が、その盛【さかん】なりし昔から思ふと嘘のやうに少なくなつて居りますのは、これに代るべき大衆の娯楽場、とりわけて映画館が、非常な勢ひで増加して来た影響を、先づその原因の第一に数へねばなりますまい。ところが昨今決戦態勢重大時局の関係から、映画の方にも統制が行はれる一方、内容的にも転換があり、それ等が動機で実演ものへ、一般の興味がふりむけられた結果、講談落語色物等寄席の演題も、再び時流に迎へられて興隆の兆〈キザシ〉を示して来たとのこと、これは我等同好者にとりまことに喜ばしい現象でありますが、何にせよその以前は、神田の須田町〈スダチョウ〉を中心に、小柳【こやなぎ】、白梅、立花の三席が、目と鼻の近い所へ鼎立し、三軒ともそれぞれ繁昌をして土地の名物にもなつてゐた。それが白梅【はくばい】先づ失くなり小柳姿を消し、更に残つた立花も、数遍の代替り、三軒も一ツ所に栄えてゐたのが一軒になり、つまり神田の一局部だけでもこれだけ変化があつたといふ事になりますが、今申した三軒の中、小柳だけは講談席、而も由緒の頗る古い家で、表看板へ大々的に「正徳四年創業」と書き出し、これを何よりの自慢にしてゐました。勿論経営者は何代も変りましたらうが、この看板が事実とすると、正徳〈ショウトク〉から現代まで二百何十年、おまけや掛値【かけね】があつて話半分として見ても百何十年といふ事になります。ずい分古い家柄だと思ひますが、この小柳に、その創業の始めから、ずつと伝はつたといふ釈台【しやくだい】がありました。釈台とは高座【かうざ】で演者が前に控へる机で、講談師が張扇や拍子木〈ヒョウシギ〉で叩き立て叩き立て、調子をとりながら弁舌を揮ふには、最も肝要な道具であります。これをそもそもの創業から使つたとすると、古来数百数十人の大家小家、名人不名人、長老末輩、有名無名の講釈師たちが、この釈台を前にして毎日毎夜弁じ立てたことを考へると、恐ろしい位の感じもしましたが、ひどいもので釈台もかうなると不思議な功能を現はしたといひます。何しろ何遍か削り直して、可なり薄くもなつてゐましたが、それでも机の表面に、ピシリピシリと張扇【はりあふぎ】の当るところは、誰が叩くにしでも大てい場所がきまつてゐますから、そこだけが深く凹んで溝になつてゐました。そして天気の悪くなるときは自然天然と、この釈台に湿【しめ】りが来まして、まるで汗をかいたやうになる。いくら拭【ふ】いても又ジツトリとして来たさうで、その反対にこれが乾いて来ると、降り続いた雨もきつと止んで、カラリとした快晴になる、それはモウ判で捺したやうだつたと席主がいつてゐました。つまりこの釈台によつて気象が予測出来たわけで、斯う〈カウ〉なると無心【むしん】の机も何だか性ある化け物のやうにも思はれます。若しもこの釈台が今まで伝はつて居りましたら、写真にも撮れませうし、実物を展覧会などへ出陳【しゆつちん】も出来ませうが、惜しいかな。大正十二年〔一九二三〕関東大震災の時に、神田区は一番最初に火の手に見舞はれ、小柳も勿論類焼、名物珍物の由緖古きこの釈台も、灰になりましたのは返す返すも惜しい事でありました。否、机ばかりではありません。この震災によつて、講談や落語に関する参考書画や物品も、烏有【ういう】に帰したものが少なからず、さらぬだに文献や記録に乏しき斯道〈シドウ〉の考証には、一層大きな障碍となりましたが、幸にもこの震火災【しんくわさい】の少し前から、関根黙庵先生の苦心してお蒐【あつ】めになつた材料及び、それによつて編纂せられた「講談落語今昔譚」と申す書物が辛うじて祝融〔火災〕の厄を免【まぬか】れましたこと、まだしもの仕合せと申すべく、然しこれが原因で先生は病を得て間もなく永眠せられましたのは、全く斯道の事を記録する為めに殉ぜられたとも云へるのであります。爾来いさゝかその御遺志【ごゐし】をつぎ心がけて集めました材料や、見聞の筆記より、兎に角この名人誌がまとまつた次第、努めて年代順に述べるつもりではありますが、読物としての興味も考へねばなりませんから、記事の配置に陰陽の色どりをも配慮いたしましたので、順序の前後や脈絡の飛び飛びになりましたところもありませう。そこは及ぶ限り年代的の書添〈カキソエ〉をしてあります故、御熱心の研究家が、これによつて更に整理して下されば、講談落語年表といつたやうなものも自然に出来やうと存じます。そして小うるさくいろいろと、参考になりさうな事を書き入れましたのも、全く後世への記録資料を、提供したい微衷〔気持ち〕であります故、お目ざわりの点は、予め御寛容を願ひまして、然らばこれより、そろそろ本文へ入る事といたします。
○神田小柳亭 大正末年廃業
○同 白梅亭 昭和十三年〔一九三八〕廃業
○同 立花亭 昭和十一年〔一九三六〕前席主大森氏の手より一龍斎貞山へ譲り、更に他の手へ渡り、現在東宝の手にて直営。
文中、「正徳四年」とあるが、西暦に直すと、一七一四年になる。また、注に「前席主大森氏」とあるのは、たぶん、大森竹次郎のことであろう(インターネット情報による)。