◎この事件は皇軍を盗用して大命に抗したるもの(舞伝男)
中野五郎『朝日新聞記者の見た昭和史』(光人社、一九八一年一一月)から、第六章「日本軍、東京を占領す――二・二六事件――」を紹介している。本日は、その七回目。「二十三」の後半を紹介する。昨日、紹介した部分のあと、一行あけて、次のように続く。
また一方、侍従長鈴木貫太郎海軍大将は、いわゆる「君側の奸臣」の大物として、反乱軍の襲撃をこうむり、重傷をうけたが、幸運にも生命はとりとめた。
〔鈴木侍従長の殺害未遂〕 侍従長殺害の任務を担当した安藤輝三〈テルゾウ〉大尉の行動はつぎのごとくである。
二月二十五日夜、安藤大尉は歩兵第三連隊第一大隊の週番司令服務中、週番士官坂井直〈ナオシ〉中尉、鈴木金次郎少尉、清原康平〈ヤスヒラ〉少尉をあつめ、明早朝に昭和維新を断行するにつき非常呼集を実施する旨等を指示し、また連隊兵器委員助手新井〔維平〕軍曹をして、弾薬庫より機関銃実包約八千五百発、軽機関銃実包約一万五千発、小銃実包三万五千発、拳銃実包約二千五百発、代用発煙筒等若干を搬出して、出動各部隊にそれぞれ交付せしめた。
さらに機関銃隊週番士官柳下良二中尉にたいし、機関銃十六分隊を編成し、二十六日午前三時までに野中〔四郎〕部隊(警視庁襲撃部隊)に八個分隊、安藤部隊、坂井〔直〕部隊に各四個分隊を配属すべき旨を指示した。
ついで所属第六中隊下士官約十名にたいし、侍従長殺害を告げ、各分担任務をさだめた。
二十六日午前三時ごろ、非常呼集を行ない、所属中隊および配属せしめた機関銃の一部とも、下士官兵約二百名を指揮し、午前三時三十分ごろ兵営を出発し、午前四時五十分ごろに麹町区三番町の侍従長官邸に到着、外部を警戒せしめるとともに、各一部を下士官に率いさせて表門と裏門より邸内に侵入、下士官などが鈴木侍従長を拳銃にて負傷せしめ、ついで入室した安藤大尉は侍従長にとどめを刺さんとしたが、妻子の懇請によりこれをやめて、午前五時三十分、退去し三宅坂付近にいたった。
かくして、鈴木侍従長は奇蹟的に命拾いをしたが、それから九年後に終戦内閣の首相として天皇の内命を奉じて、和平降伏の至難の大任を果たした鈴木老提督は、戦後まで生き残り、奇しくも遭難当時の模様を、みずから『鈴木貫太郎自伝』のなかで、つぎのように記録しているのは興味がふかい。
「二・二六事件の前触れのように、我々が感じたのは、昭和十年〔一九三五〕に九州大演習がありましたとき、流言があって、私たちが暗殺されたということが世の中に流布された。それから二・二六事件の十数日前くらいであったが、今度はなにか不穏な陰謀が陸軍青年将校の間に企てられ訓練をしており、それがよほど進んでいる、という噂を耳にしたことがある。なにか革新運動に障害のある大臣を片づけるんだというようないろいろの風説があり、本庄君(侍従武官長本庄繁陸軍大将)からも気をつけるようにという注意があった。
二月二十五日夜は、アメリカのグルー大使から斎藤〔実〕内大臣夫妻らと共に招待をうけて、午後十一時ごろに帰宅した。二十六日の朝四時ごろ、熟睡中に女中が私を起こして、『いま兵隊さんが来ました、後ろの塀を乗り越えてはいって来ました』と告げた。(中略)私は、すぐ跳ね起きて、防御になるものを捜したが見当たらない。その中に大勢、闖入の気配が感ぜられたので、(中略)八畳の部屋に出て電灯をつけた。
すると周囲からいちじに二、三十人の兵が入って来て銃剣でとりまいた。その中の一人が進んで出て簡単に『閣下ですか』と丁寧な言葉でいう。『そうだ』と答えて、『静かになさい、理由を聞かせてもらいたい』と言った。それでもみな黙っている。三度目に下士官らしいのが『もう時間がありませんから、撃ちます』と言うから、『それなら止むを得ませんからお撃ちなさい』と言うて、直立不動で立ったそのとたん撃たれた。
私の倒れるのを見て、向こうは射撃を止めた。すると大勢の中から、『止【とど】め! 止め』と連呼する者がある。そこで下士官が私の前に座った。そのときに妻は数人の兵に銃剣とピストルを突きつけられていたが、『止めはどうかやめていただきたい』ということを言った。ちょうどそのときに、指揮官らしい大尉が入って来て、(中略)『止めは残酷だからやめろ』と命令した。そう言って指揮官は引きつづいて、『閣下に対し敬礼!』という号令を下した。そこにいた兵隊は全部、折り敷き、ひざまづいて捧げ銃をした。
指揮官は、妻に行動の理由を述べ、安藤輝三とはっきりと答え、自分もこれから自決すると口外した。(中略)その後に脈が消えたが、自分が蘇生したのは、妻が懸命に霊気術と止血法をやってくれたのが成功したのかも知れません。
【一行アキ】
全身に銃弾を浴びて、瀕死の重傷で呼吸も絶えだえの、老重臣の血まみれの姿をまえにして、「敬礼!」の号令一下、反乱兵がいっせいに捧げ銃をした光景こそ、じつにショッキングな全世界に類例のない天皇制軍隊の反逆の姿であった。それがいわば「尊皇討奸」をめざす昭和維新の奇怪なあり方でもあった。
こうして、この雪の朝の皇軍反乱――すなわち決起青年将校の唱えた「昭和義挙」により、斎藤内府と高橋〔是清〕蔵相のほかに、岡田啓介首相の身代わりとして首相官邸に同居中の義弟の松尾伝蔵予備海軍大佐と、皇道派からもっとも憎まれていた陸軍教育総監渡辺錠太郎大将とが、無残にも全身に銃弾を撃ち込まれて惨殺されたのである。
これについて、さきに引用した反乱首魁の村中孝次〈タカジ〉元大尉が、その獄中遺書『続丹心録』の中で、つぎのとおり無理に弁明しているのは、やはり内心で一沫の良心の苛責を感じていた証拠ではなかろうか?
「殺害方法が残忍酷薄にして、非武士的なりという非難あり。斎藤内府は四十数ヵ創を受け、渡辺大将は十数ヵ創を受けたりと言い、人をして凄惨の感に打たしむ。残忍といえば、すなわち残忍なり。ただし、一弾一刀を以て人の死命を制し得る武道の達人に非ざれば、むしろ巧妙を願わず、数弾を放ち、数刀を揮【ふる】うことをいとわず、完全に目的を達するを可とし、宋譲の仁は絶対に避くべきなり。余は一、二同志に向かい、必ず将校みずからが手を下し、下士官は自己の護衛および全般的警戒に任ぜしむべきこと、五・一五事件の山岸〔宏〕中尉のごとく『問答無用』にて射殺するを可とする旨を言いしことあり……」
【一行アキ】
しかしながら、二・二六事件で凶弾にたおれた各重臣のいたましい犠牲について、軍の内部にも痛烈な自己批判の声が高まったのは当然である。ことに多数の反乱部隊をだした第一師団ではいたく狼狽して、師団長堀丈夫〈タケオ〉中将以下幹部は大いに自粛、謹慎し、麾下〈キカ〉部隊の責任者を緊急召集して、つぎのとおり舞【まい】参謀長より決起将校を徹底的に非難する極秘の発言をおこなった。
【一行アキ】
第一師団参謀長舞伝男〈マイ・デンオ〉少将口演要旨
(前略)この事件は皇軍を盗用して大命に抗したるものにして、この間用捨することは一つもこれ無く、目下西田税〈ミツギ〉、北一輝を調査中にして、彼らの思想は矯激【きようげき】にして純真なる将校が彼らと悪縁を結び判断を誤りて彼らに動かされたるものにして、かくの如きことは隊の青年将校にも示して疑惑なき如くせよ。師団においては事件直後における収拾、今後の建直しに努力しありて、これが真の御奉公にして決して責任を避けんとする意志なく、将兵一同昼夜心血を注ぎ努力しあること、このことが真の御奉公の道なりと信ず。
反乱将校の態度は武士道に反し指断すべきもの多々あるを遺憾とす。たとえば、
㈠ 大官を暗殺するに機関銃数十発を射撃して、これを斃【たお】し、血の気なくなりたる後、これに斬撃を加えたるものの如し。
㈡ 大元帥陛下をはじめ奉り全国挙【こぞ】って憂愁に暮れある間に、反徒は飲酒銘酊醜態を演じありたり。
㈢ 死すべき時来れるに一人の外、悉【ことごと】く自決するに至らざりき。
事件の原因として、ようやく判明しつつある事項を挙げれば次の如し。
㈣ 反軍幹部及び一味の思想は過激なる赤色団体の思想を、機関説に基く絶対尊皇の趣旨を以て擬装したる北一輝の社会改造法案及び順逆不二の法門に基くものにして、我国体と全然相容れざる不逞思想なり。尊皇絶対を口にするも内容は然らずして、如何にも残虐なる行為をなして、これを残虐と考えざる非道のものなり。
㈤彼らが敵とせる財閥は、これを恐喝して資金を提供せしめたる事実あり。(原文のまま)