礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

南京政府は即時解消する(繆斌提案)

2020-05-30 01:46:02 | コラムと名言

◎南京政府は即時解消する(繆斌提案)

 志賀哲郎の『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、その一〇回目(最後)で、「軍閥・和平の機会を逸す」の節を紹介する。

    軍閥・和平の機会を逸す
 石原〔莞爾〕中将は前の言に次いで更にかう言つてゐる。
「次は大東亜戦争週末六箇月前の本年〔一九四五〕二月から三月にかけての事、小磯〔国昭〕大将が首相で、フイリツピンを大王山などと空元気〈カラゲンキ〉を出して国民の尻をひつぱたいてゐた時だ。即ち日支全面的和平と日米休戦の動きで、わしの所へも支那要人から全幅的努力を望む旨の手紙があつたので、さつそく小磯首相に建言した。小磯首相も戦争収拾のために全力を尽すことを約したが、その後の報告によると、小磯と緒方〔竹虎〕が熱心に説いたのに対し、絶対反対を唱へたのは重光〔葵〕と阿南陸相〔ママ〕だつたといふ。これがたたつて遂に小磯は失脚した。然らば何故に重光と阿南〔ママ〕が反対したか。確証によると、重光は当時の国民政府から蒋介石との協定を行はぬ約束の下に二千万円といふ莫大な金を貰つてゐた。聴けば後で返したとかの話もあつたが、返したらよいではすまされない。
 ところで小磯の後を襲つたのが鈴木貫太郎大将である。さうかうしてゐるうちにドイツが敗北し、従つて煮え切らぬ日本の態度にしびれを切らした米支は、日支全面和平と日米休戦を取り止め、飽くまで戦争を継続する旨を通告して来た。これで日本は最後の致命傷を負はされたのである。わしは今野にあつてしみじみと当時の事を考へ残念で堪らない。軍閥の罪悪史など正に無限といつてもよいだらう。」
 東久邇宮〔稔彦王〕内閣の政治幕僚であつた田村眞作氏もこれを立証してかう言つてゐる。
「繆斌〈ミョウ・ヒン〉氏の運動は北支の新民会副会長の椅子にあつた当時に初まる。
 当時彼は、会自体が日本製偽民衆団体である事に不満を感じ、真実の中国人の団体たらしめようと北支軍当局に計つて一蹴され、北支から追放された。そして南京へ赴き、汪〔兆銘〕政府に迎へられて立法院副院長になつたが、彼が重慶の何応欽氏と親交のあるところに着目したわが外務省では、南京大使館の中村参事官をして何氏に連絡することを依頼せしめた。そこで彼は密使を重慶に送らうとしたが、汪の秘密警察にその秘密書類を押へられ、激怒した汪は処罰するつもりで軟禁してしまつた。すると連絡を頼んだわが大使館側は卑怯にも事件の波及を惧れて知らぬ顔の半兵衛をきめこんだ。
 その後も彼〔繆斌〕はわが憲兵隊のために苦汁を嘗めさせられたこともあつたが、日支和平の熱情を捨てない彼は、何時かその機会を掴まうと努力してゐた。そこへ昭和十九年〔一九四四〕十二月、小磯大将の親友である古い支那通が、小磯大将の意を受けて渡支し、繆斌氏と会見した。私〔田村眞作〕も同席し、種々懇談の結果、一度彼を日本へ連れて行くことにし、重慶要人をも伴つて日本向けの飛行機を待つたが、現地軍は貸してしてくれなかつた。後で判つたことだが、小磯総理が当時の柴山〔兼四郎〕陸軍次官に、繆斌氏来訪に便宜を与へてくれるやう再三頼んだにも拘らず、柴山次官は、総理には快諾しておきながら、現地へはこれを阻止する電報を打たせた。
時日は無益に流れたが、和平を捨てない繆斌氏は、二十年〔一九四五〕六月十五日漸く単独で日本へ飛んで来てすぐ小磯総理と会見し、次のやうな提案をした。
 「南京政府は即時解消すること。その要人周仏海等八名を日本側で引取り、日本内地で保護すること。中国における日本軍は即時全面的に撤退すること。かくして日支の停戦をして日本と他の連合国との和平の前提たらしめること」  
 これに対し小磯大将は曖昧な態度であつたが、重光外相が第一条に大反対し、第二条には現地軍が猛烈に反対した。それでも小磯総理は一応これを最高国防会議にはかり、その進展を期待したが、閣僚中これに賛成するものは緒方情報局総裁だけで、米内〔光政〕海相は中立を表明し、杉山〔元〕、重光、石渡〔荘太郎〕が全面的に反対した。表面に出ぬ反対者に木戸〔幸一〕内府がゐた。東久邇宮〔稔彦王〕は当時和平の実現を期待せられ、もし日支の全面的和平が実現したら蒋介石をして大東亜戦争に終止符を打つべき大きな世界的和平的提議の役割を演じて貰ひたいといふ熱烈な希望の下に繆斌氏を激励された。併し閣内の不統一と木戸内府の反対とで、この提案は闇に封ぜられたばかりか、小磯内閣挂冠〈カイカン〉の原因ともなつた。
 内閣瓦解前、杉山陸相の後任に阿南〔惟幾〕大将が据つたが、阿南は対米交戦対支和平といふ意見で、陸軍はこの提案に頭から反対するものではない、反対者は個人で説得するから大いに話を進めて貰ひたいと総理を激励しようとしたが、惜しいかな其の忠告が総理まで届かないうちに内閣総辞職となつてしまつた」
 以上は日支間の問題であるが、日米間においても幾度か同様な動きがあつた。シンガポールが陥落した時、英国の外相イーデンは和平を提議して来た。即ち「英国の面子上シンガポールを返してくれさへすれば、北支五省は日本にまかせるし、日本から和平を提案してくれゝば米国と重慶とは英国で説得する」と言つて来た。だが戦勝の甘酒〈カンシュ〉によひしれてゐた東條は、これを鼻であしらつた。
 同様のことが他の方面からも持出され、その真相は近い将来において明るみに出されるであらう。比島占領の時、ガタルカナル失陥の時、ソロモン海戦の時、マリアナ失陥の時、レーテ放棄の時など、先方が動きもしたし、こちらから能動的に動けばよい機会は幾らもあつたと思はれる。然るにその努力を怠り、本土決戦など、空元気をつけて飽くまで政権にかぢりつき、終に国家をして最悪の淵にまで追込んでしまつたことは、責任ある当局者として正に罪万死に価する。反省したつて懺悔したつて、或は辞職したつて切腹したつてその罪を免れるものではない。

 この本を書いた志賀哲郎については、まだ調べていない。わかり次第、報告したいと思う。
 明日は、一度、話題を変える。

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