礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

九州に熱血漢・満井佐吉中佐あり

2020-05-09 02:06:44 | コラムと名言

◎九州に熱血漢・満井佐吉中佐あり

 中野五郎『朝日新聞記者の見た昭和史』(光人社、一九八一年一一月)から、第六章「日本軍、東京を占領す――二・二六事件――」を紹介している。本日は、その十一回目(最後)。「二十六」の全文を紹介する。

      二十六
 永田〔鉄山〕軍務局長を、いわゆる「大逆不逞の軍賊」として、軍刀で斬り殺した相沢〔三郎〕中佐の軍法会議に、特別弁護人として活躍した、当時、陸大教官満井佐吉〈ミツイ・サキチ〉中佐もまた、二・二六事件の舞台裏で暗躍したワキ役の花形であった。
 彼は、ドイツ在勤のあしかけ三年間(一九二九~三二年)、ナチス・ドイツのすさまじい国家社会主義運動に共鳴して、隆々たる統制経済と軍備強化との姿を眼のあたりにして帰国したのだ。すると、日本の政党政治の腐敗と官吏の堕落と財閥の搾取が目にあまり、胸中の正義感が爆発した。
 たまたま北九州の三井経営の三池炭鉱に大争議がおこるや、ナチスじこみの満井中佐は、数万のまずしい炭鉱夫と家族を見ごろしにする資本家の横暴にいかり、大牟田市の市民大会に軍服のままとびいりして、三井財閥膺懲〈ヨウチョウ〉をさけんで大熱弁をふるったうえ、みずから単身上京して日本橋の三井合名本社へ乗りこんだ。そして財閥の長老の池田成彬〈シゲアキ〉氏に面会、軍刀で床をたたきながら強談して善処を要求したのは、当時、すでに有名な話であった。
 この事件で、九州に熱血漢満井中佐あり、とばかり彼の雷名は、にわかに国家革新の運動上にクローズ・アップされた。そして昭和九年〔一九三四〕八月、陸大教官に転任して上京した後は、すでに国家革新運動の闘士になっていた。
 彼が相沢中佐の公判で、特別弁護人に選任されたのは、急進的な青年将校一派のあいだで、先輩格の彼の地位と熱弁と闘志が、たかく買われたために推薦されたからであった。私〔中野五郎〕は当時、相沢事件の専任記者としてたずねたが、まず初対面でおどろいたことは、彼の軍人にはめずらしい滔々たる現状打破の熱弁と、頬骨が出てヒトラー流のチョビヒゲをはやした神経質な青白い顔にするどく光る異様な眼光であった。
 さて、ついに二・二六事件がおこるや、彼は率先して決起将校のために事態収拾に乗り出し、軍首脳部にたいして、「日本を救うためには青年将校の精神を生かして、これを機会に速やかに維新を実現せしめよ!」と強く進言して、二十八日に討伐の奉勅命令の下るまで連日、反乱軍のために奔走したのであった。
 かくて、反乱部隊の鎮定後、満井中佐は事件の黒幕の有力人物として検挙され、「反乱者にたいして軍事上の利益をあたうる行為をした」という罪状により起訴され、東京陸軍軍法会議の公判に付された。ヒニクにも彼は、一年まえに相沢中佐の弁護に立ち、重臣、財閥攻撃の熱弁をふるった法廷で、みずからがさばかれる身とかわったが、昭和十二年〔一九三七〕一月十八日に禁固三年の判決を言いわたされた。
 また、二・二六事件の突発のために中断されていた相沢中佐の永田中将殺害事件の審理は、判士(裁判官)を更迭したうえ、非公開のまま裁判のやりなおしを行ない、昭和十一年五月七日に死刑の判決が宣告された。これにたいして、相沢中佐は不服で高等軍法会議に上告したが棄却され、同年七月三日に代々木陸軍衛戍〈エイジュ〉刑務所で銃殺された。それは二・二六事件の香田〔清貞〕大尉以下、多数の決起将校の処刑の九日前であり、享年四十七歳だった。

 中野五郎『朝日新聞記者の見た昭和史』の紹介は、これで終えるが、二・二六事件関係の話題は、このまま続けたい。

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