◎清軍派は、腐敗した重臣・政党人・財閥の一掃を期し……
志賀哲郎の『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、その六回目。
本日、紹介するのは、「清軍派追出しの陰謀」の節である。この節は、やや長いので、二回に分けて紹介する。
清軍派追出しの陰謀
これらの事件〔三月事件、十月事件〕に参画した者たちは、奇妙なことには宇垣〔一成〕大将を初め、一般には陸軍内部の穏健派と見られ、荒木〔貞夫〕、真崎〔甚三郎〕派を急進派と呼んでゐた。何故なら、前者が旧来の政党人や財閥と結託してゐるに反し、荒木、真崎派は、政治に容喙〈ヨウカイ〉し政権を握らうとする軍人の傾向を一掃し、軍人をして軍人本来の面目に還らしめようといふ謂はゞ清軍派ではあるが、国家の前途を心から憂へるところから、重臣や政党人や財閥の腐敗した者たちを痛烈に剔抉〈テッケツ〉し、これが一掃を期し、真に昭和維新を齎し〈モタラシ〉たいと考へてゐたからである。この純真な気持を受継いだ青年将校の中には憂国の激情み難く、終に昭和七年〔一九三二〕五月十五日、犬養〔毅〕首相暗殺といふ五・一五事件を起し、その他これと一連の繋りを持つ井上〔準之助〕蔵相、團琢磨〈ダン・タクマ〉等の暗殺事件、その他の騒擾〈ソウジョウ〉事件を頻発せしめた。
清軍派によつてかういふ事件が起されると、生命の惜しくなつた重臣、財閥、政界人たちは、陸軍部内の穏健派を巧みに利用して、先づ荒木、真崎の両巨頭追出し策を講じ、併せて、理想に走らうとする青年急進派の気持を国外にそらせるために対外戦争を計画したのである。
昭和六年〔一九三一〕十二月、政友会の犬養内閣が成立した時、荒木大将は陸相に就任し、七年〔一九三二〕五月十五日犬養首相が暗殺せられ、その後へ齋藤〔実〕内閣が成立しても荒木大将は相変らず陸相に居据り、九年〔一九三四〕一月、林銑十郎大将に後を譲るまで満二年の間、真崎参謀次長と共に清軍派の黄金時代を現出した。その間三月事件、十月事件に関連した者達を外地に追ひやつたので、彼等は何とかして中央へ還らうとし荒木、真崎追出しに狂奔した。その手に乗ぜられて荒木大将は先づ退陣したが、真崎大将は教育総監となつてなほ中央に残り、陸軍省にも清軍派の柳川〔平助〕中将が次官として残つてゐたので、財閥重臣の手先に躍る所謂穏健派の林陸相は思ひのまゝ腕を揮ふことが出来なかつた。そこで昭和十年〔一九三五〕七月、部内に派閥を設けて蟠踞〔蟠踞〕するは軍の統帥を紊る〔ミダル〕ものとして真崎大将を辞任せしめようとしたが、頑として動かず、「今次の人事異動は部外の干渉が加はつてゐる。斯くの如きは建軍の大義に反するものである」と云つて却つて強く反対した。そこで陸相は閑院参謀総長宮の御威光をかりて真崎を納得させようとしたが、真崎が頑としてきかぬので、「軍の人事異動を妨害するもの」との汚名を着せ、突如これを罷免してしまった。これを聞いた某大将は、「親友にあらぬ汚名を着せるとは武士の風上にもおけぬ卑劣漢」と言って林陸相を面罵したが、重臣、財閥の方では、満洲事変の際に独断越境して軍を進めた英断にも比すべきものと林陸相をほめちぎつた。然もこの時には建川〔美次〕第十師団長を陸軍次官に、小磯〔国昭〕第五師団長を航空本部長に、東條〔英機〕第二十四旅団長を整備局長にするといふお膳立がチヤンと立てられてゐたのである。【以下、次回】