◎宇垣大将が承知しても俺は承知しないぞ(真崎甚三郎)
志賀哲郎の『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、その四回目。
本日、紹介するのは、〝「三月事件」とは何か〟の節である。
「三月事件」とは何か
「三月事件」とは満洲事変に先立つ昭和六年〔一九三一〕三月に起つた事件である。これは宇垣一成〈カズシゲ〉大将の政権慾から初まつてゐる。
当時は濱口〔雄幸〕内閣で、宇垣大将は陸軍大臣であつたが、陸軍の小磯〔国昭〕、建川〔美次〕、二宮〔治重〕、杉山〔元〕、永田〔鉄山〕、といふやうな将官が中心となつて宇垣陸相を擁立し、陸軍に政権を奪はうと計画し、民間の大川周明、清水行之助〈コウノスケ〉、北一輝などと通謀し、折柄開会中の第五十八議会を機とし、軍隊を動かして議会を包囲してクーデターを断行、一気に宇垣内閣を作らうとしたものである。クーデタ一の計画は北が樹て、永田鉄山が計画書を書き、それによつて各自の持場で行動を起した。ところが佐郷屋留雄〈サゴウヤ・トメオ〉といふ、これには関係ない青年が飛出して濱口首相の横腹を刺した。この突発事件のためにクーデターの計画は些か〈イササカ〉頓座したばかりか、うまくゆけば手を下さずして宇垣陸相に政権が来さうな状勢になつた。といふのは、当時民政党内には安達派と宇垣派があり、濱口総裁なき後は、どちらかを総裁にかつがうとし、党内の大勢は初め安達謙三氏に傾いてゐたが、その後宇垣派の策動効を奏し、大体宇垣大将に政権が転がりこみさうになつた。そこでクーデター中止の命令を下した。
尤もその一方には、徳川義親〈ヨシチカ〉侯がこれを知り、大川周明をつかまへて泣いてその非を説いた事実もあり、更にまた真崎甚三郎大将(当時第一師団長中将)が軍事課長であつた永田を捕へ、
「宇垣大将が承知しても俺は承知しないぞ。クーデターなんか皇軍を一兵たりとも動かすことは断じて許さぬ」
と強硬に申入れたので、遂に事なきを得たのである。