◎二・二六事件は清軍派の一掃を計った大芝居(真崎甚三郎)
志賀哲郎の『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)を紹介している。
本日は、その七回目で、「清軍派追出しの陰謀」の節の後半を紹介する。
かうして荒木〔貞夫〕、真崎〔甚三郎〕両大将を中央から追出しはしたものゝ、青年将校の間にはなほ昭和維新を叫ぶ者が多かつたので、重臣、財閥たちは、齋藤〔実〕、岡田〔啓介〕等の穏健な海軍内閣を作り、只管〈ヒタスラ〉清軍派の一掃を期したが、野に下つてもなほ隠然たる勢力のある真崎大将を完膚なきまでに陥れようとし、二・二六事件が勃発したのを奇禍〔奇貨〕とし、真崎大将が背後で糸を引くものと言ひふらし、真崎を法廷にまで引出して宣伝これ努めたが、真崎の逆襲にあつて無関係を認めずにはゐられなかつた。
これに就いて真崎大将はかう語つてゐる。
「二・二六事件も、やはり青年将校が社会改革の熱情に燃えてゐるところをフアツシヨ亡者共が利用し、軍や自分達の意に満たぬものゝ一掃を計つた大芝居である。私も一年間さんざん苦しめられたが彼等は青年将校の間で私が人気のあるのに難癖〈ナンクセ〉をつけ、何とかして陥れようとしたものである。しかし私としては全然覚えのないことで、左の五箇条を法務官に提示し、事件の根本的調査を申入れて無関係を諒解せしめた。それは、
一、前もつて西園寺〔公望〕公等の元老が知つてゐたのは何故か。
二、十月事件と抗争も方法も同一だから、その時の黒幕がゐるはずだ。
三、青年将校はこの結果相澤〔三郎〕中佐(永田鉄山少将を斬つた人)を救ふことができると或る人から聞かされてゐる。その証拠には大半が相澤の同情者である。
四、事件が起ると同時に私等が躍らせた如く報道されたのは、何人〈ナンピト〉かゞ予め準備してゐたことを物語るものである。
五、磯部浅一(十月事件にも関係す)と刑務所で対決させながら、磯部が「閣下、たうとう彼等の術策に陥りました」と口走つたので、その先を反問しかけたところ、法務官は磯部を退廷させでしまつた」
二・二六事件は政権慾に眼のくらんだ一部軍人が反間苦肉の策として深く謀らんだものであるが、社会改革の気運が青年将校達の間に旺盛なのを見、これに動かされ、或はこれを圧へるための両面から観て、予備に編入せられた荒木、真崎を再びかつぎ出さずにはゐられないやうな状勢になると、軍閥フアツシヨの陰謀団は、これを圧へるために、「現役将官に非ざれば陸軍大臣たり得ず」といふ規則をあわてゝ作つてしまつた。これは現在の次田〔大三郎〕内閣書記官長が、時の広田〔弘毅〕内閣の法制長官として考へ出し、得意になつて重臣や枢密院の老人達を説得して歩いたものであるが、これこそ軍閥フアツシヨ共の考へた両刃の剣〈モロバノツルギ〉で、この一剣、清軍派の再起を圧へると同時に、陸軍が政治に絶大な容喙権を獲得したもので、彼等がウンといつて陸相を出さない限り内閣は成立しないのだから、政権は自ら〈オノズカラ〉我が手に転げ〈コロゲ〉こむ、少くとも政府を陸軍の思ふがまゝに躍らせることが出来るわけである。支那事変において近衛〔文麿〕内閣が三度倒れたのも、平沼〔騏一郎〕内閣が倒れたのも、日独伊軍事同盟が重臣の意に反して締結せられたのも、みなこれがためである。そして東條〔英機〕首相によつて初めて軍部内閣を組織し、政権を軍部に掌握するの永い野望を実現することを得たのもみなこの為である。然も東條首相は、現役のまゝ首相となり、陸相をも兼ね、更に参謀総長まで兼任するに至つて、彼等はさぞかし我が世の春を謳歌したことであらう。しかしながら、これあつたが故に今日、重臣はその地位を奪はれ、財閥はその財を失ひ、政界人はその官職を追はれるやうになつたのも、これみな現役軍人に非ざれば陸相たり得ずと規定したそのためである。つまり仇敵〈キュウテキ〉清軍派を葬るために謀み〈タクラミ〉に謀んだ陰謀が、今自らの生命を断つの剣となつたのである。因果応報恐るべしといふも余りに深刻な失策であつた。
文中、「現在の次田内閣書記官長」とあるが、この時の内閣は、幣原喜重郎内閣である(一九四五年一〇月~一九四六年五月)。
今日の名言 2020・5・27
◎因果応報恐るべし
志賀哲郎の言葉。『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)の四五ページに出てくる。志賀によれば、軍部大臣現役武官制は、清軍派の巨頭である荒木貞夫・真崎甚三郎両大将の影響力を排除するために、重臣・財閥・政界人が考え出した制度であったという。ところが、因果応報恐るべし、その制度が、重臣・財閥・政界人の生命を断つことになった。