礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

弾薬は豊橋の佐々木到一連隊長が持参する

2020-05-25 03:07:45 | コラムと名言

◎弾薬は豊橋の佐々木到一連隊長が持参する

 志賀哲郎の『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、その五回目。
 本日、紹介するのは、〝「十月事件」の真相〟の節である。

    「十月事件」の真相
「十月事件」は「三月事件」の思想を将官級から佐官に受継いだもので、橋本欣五郎大佐が中心をなしてゐる。即ち永田鉄山少将、橋本大佐、田中清少佐、池田紀久少佐等が、満州事変や対独問題で興奮してゐる青年将校たちや民間の浪人壮士たちを煽動してクーデターを決行しようとしたもので、 林銑十郎、小磯〔国昭〕、建川〔美次〕等の三月事件の中心人物をかついで政権を奪取しようとしたのである。
 彼等は盛〈サカン〉に待合や料亭に会合し、大いに痛飲しながら天下国家を論じ、武力蹶起の計画を巡らし、決行の上はかういふ内閣を作らうと大臣の顔ぶれまできめてゐた。そして、よく事情を知らぬ純真な青年将校が、「酒席の費用は何処から出るのですか」ときくと、
「心配するな。陸軍から出てゐるんだ。陸軍の大世帯はこれ位の金に困りやしないよ。政党人のやうに、へんな財をから〔ママ〕せしめて来たやうな不純なものではないんだから、安心して飲め」
といふやうなことをいひ、
「成功の暁には大いに論功行賞するぞ」
といつて青年達を喜ばせたり、
「弾薬は豊橋の佐々木到一〈トウイチ〉連隊長が決行直前に持参することになつてゐるから安心せい」
「俺達は足利尊氏になつても陛下に短刀を突きつけてでも断じて決行するぞ」
「その時の詔勅の草稿は、大川周明が用意してゐる」
などと大言壮語して青年たちを煙に巻いた。しかし純真な青年たちの中には、何はともあれ陛下を驚かし奉る〈タテマツル〉ことは恐懼〈キョウク〉にたへないとし、
「吾々は決行の暁には二重橋前で切腹して申訳したいと思ひますが幹部の御意向は如何ですか」
と問ふと「切腹なんかせんよ」と答へた。そこで純真な青年将校たちは、漸く幹部の態度に疑惑を持ち初め、些か〈イササカ〉内部に動揺を来して〈キタシテ〉ゐたが、〔一九三一年〕十月十五日、渋谷の侍合銀月で誓約の血判をさせられ、決行の日近きにありと思つてゐた矢先、翌十六日に、幹部級が築地の錦水に会合してゐると、突如荒木〔貞夫〕大将が乗込んで来て、懇々として順逆を説き、このために青年将校の気持が幹部から離れ去つたので、終に具体化せずに終つたのであつた。
 これらの関係者達は、その年の十二月に荒木大将が陸相となるに及んで満洲へ追ひやり、橋本大佐を予備役に編入してしまひ、越えて七年〔一九三二年〕一月真崎〔甚三郎〕大将が台湾から帰り、閑院参謀総長宮〈カンインサンボウソウチョウノミヤ〉殿下〔閑院宮載仁親王〕の下で参謀次長になつた時、三月事件のために清水組に隠匿してあつた爆弾などを取上げて、これらの事件を表面に出さないで済ませたのであつた。

*このブログの人気記事 2020・5・25

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする