礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

おまえたちの心はよくわかっとる(真崎甚三郎)

2020-05-06 02:25:22 | コラムと名言

◎おまえたちの心はよくわかっとる(真崎甚三郎)

 中野五郎『朝日新聞記者の見た昭和史』(光人社、一九八一年一一月)から、第六章「日本軍、東京を占領す――二・二六事件――」を紹介している。本日は、その八回目で、「二十四」の全文を紹介する。

      二十四
 さて、二・二六事件の舞台裏で踊った人々のなかで、いちばん注目された人物は、決起青年将校たちから最大の尊敬と信頼をあつめていた陸軍内部の皇道派の巨頭で前教育総監、軍事参議官真崎甚三郎〈マサキ・ジンザブロウ〉大将であった。
 彼は葉隠れ武士の本場の佐賀県生まれ、陸軍士官学校第九期卒業、明治四十年〔一九〇七〕に陸軍大学校を優等で出ていらい、かがやかしい経歴をたどって陸軍部内の長老の地位にあり、陸士第九期の同期生には、荒木貞夫大将、阿部信行〈ノブユキ〉大将、松井石根〈イワネ〉大将、本庄繁大将などがいて有力な勢力をつくっていた。
 彼が皇道派の巨頭として、全国の青年将校たちより「おやじ」として慈父のごとく敬愛されていたのは、彼の素朴で強烈な忠君愛国の熱情と、村夫子然〈ソウプウシゼン〉たる態度によるものであり、また容易に妥協せぬ頑固な一徹者の気性のせいでもあったようだ。それだけに、彼には敵も多く、個性のつよい正直者といわれた反面、また腹黒い野心家とも誤解された。
 それで二・二六事件がおこったとき、戒厳令下で、もちろん新聞報道は厳禁されていたが、各新聞社の消息通の間では、はやくから事件の背後に黒幕の大物として真崎大将の姿が大きくクローズアップされていたものだ。それはなぜか?
 これにはいろいろ複雑な理由があったが、とくにだれの眼にもあきらかであったことは真崎大将が陸軍部内で、もっとも革新的な皇道派の巨頭として、二・二六事件の導火線ともいうべき統制派の第一人者、永田鉄山少将斬殺事件の犯人、相沢三郎中佐の軍法会議公判廷で、いかにも被告相沢中佐の行動を支持するがごとき同情的な態度をしめしたうえ、「軍の機密事項は天皇の勅許がなければ証言できない」と、大ミエをきり、軍法会議当局にたいして非協力というよりも、むしろ挑戦したからであった。
 それは波瀾万丈の相沢中佐公判の第十回目――昭和十一年〔一九三六〕二月二十五日午前、公開禁止の証人喚問の法廷における出来ごとであり、はたしてその翌日未明に、二・二六事件が突発したのである。
 すくなくとも彼は、「昭和維新」という名の大規模な軍隊反乱をかねてより内心で予想していたのではあるまいか?
 かれが相沢中佐に深く同情するのは当然であった。なぜならば、皇道派の中堅将校のなかでいちばん熱狂的な相沢中佐は、昭和十年〔一九三五〕七月十五日に、当時の教育総監真崎大将が、本人の意思に反して突然、罷免されたことを、永田軍務局長を中心とする統制派の陰謀によるものであり、これは「統帥権の干犯〈カンパン〉」であると信じこんで、単身、決起して、「天誅!」とさけんで永田局長を斬殺したからであった。
 すなわち、相沢中佐の決起した直接の原因は、真崎大将の教育総監罷免問題であり、それは後に二・二六事件の民間側首魁として死刑を宣告、執行された西田税〈ミツギ〉の配布した「軍閥重臣の大逆不逞」と題する怪文書のなかでも、つぎのごとく誇大に強調されて、全国の皇道派青年将校たちを激怒させていたからだ。
「教育総監更迭の背後には、重臣軍閥のおそるべき陰謀がある。軍閥の中心は永田軍務局長であり、林〔銑十郎〕陸軍大臣はそのカイライである。かれらは統帥大権を干犯し、皇軍を私兵化した」
 また当時、十一月事件(士官学校事件とも呼ばれ、昭和九年〔一九三四〕十一月の在京青年将校および士官候補生の不穏計画をさすが、軍法会議で取り調べの結果、証拠不十分で不起訴となる)に連座して停職中の革新派の急先鋒、村中孝次〈タカジ〉大尉と磯部浅一〈アサイチ〉一等主計の両人もまた、真崎教育総監の罷免にいたく憤慨して、「教育総監更迭事情」というパンフレットを各方面に配布したため、いずれも昭和十年八月二日付で免官処分に付された。
 こんな調子で、真崎大将は血気さかんな青年将校たちのあいだで、国家革新運動の「偉大な犠牲」のごとくみなされて、当時、陸軍中央部を支配して粛軍方針をおしすすめていた統制派とまっこうから対立し、部内の派閥争いをますます激化させていた。しかも、相沢中佐公判をめぐる急進派の法廷闘争の台風の中心にあった真崎大将自身は、軍の長老として私情をはさまず、青年将校同志の軽挙妄動をいましめるべき立場にありながら、かえってかれらの過激な国家革新運動の火にアブラをそそぐような言動がめだった。
 かくて二・二六事件が突発するや、かれはあたかも待っていましたとばかりに軍服の正装に威儀をただしていちはやく、反乱部隊が包囲占拠中の麹町永田町の陸相官邸へ急行して、重臣暗殺をすませた決起将校一味にむかって、「とうとうやったか、おまえたちの心はよくわかっとる、よおくわかっとる」となぐさめたうえ、宮中に参内して、〔本庄繁〕侍従武官長を通じて決起の趣旨を上奏し、いわゆる「維新大詔」の渙発を期待して軍政府樹立をめざす工作につとめたのであった。
 もしも二・二六事件が成功して昭和維新が実現していたら、絶対天皇制のもとに、真崎大将を首班とする国家革新的な色彩のつよい軍部独裁政権が出現したことであろう。

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