◎予に一点の疚しき事なし(香椎浩平)
香椎研一編『香椎戒厳司令官 秘録二・二六事件』(永田書房、一九八〇)が刊行されたのは、一九八〇年(昭和五五)二月一五日である。そのオビには、「〝辱職〟の汚名は歴史が雪ぐ、と信じて篋底に秘めた武人の心」などとある。ここに、〝辱職(じょくしょく)〟という言葉が使われているのは、事件直後、香椎浩平戒厳司令官が叛乱軍に加担していたという嫌疑が浮上し、そうした嫌疑が、同書刊行時においても、なお晴れてはいなかったからである。
この問題に対し、香椎本人は、どのように釈明していたのか。『香椎戒厳司令官 秘録二・二六事件』の「第五 補遺」の「三十八」以下は、その釈明である。本日は、「三十八」の前半を紹介する。
ルビは、同書にあったものを、一部、採用した。このルビは、編者の香椎研一が振ったものと思われる。また、編者による「編注」のうち、本文に組み込めるものは組み込んだ。組み込めないものは、必要に応じて、本文のあとに引いた。
三十八
思ひ出すさへ忌ま忌ましい。
昭和十一年〔一九三六〕十月七日、東京軍法会議匂坂【さきさか】〔春平〕法務官の名を以て、出頭通知状なるもの舞ひ込み来【きたつ】たのだ。
曰く「辱職被告事件につき相尋【あいたず】ね度儀〈タキギ〉有之【これあり】候条、昭和十一年十月八日午前九時、当軍法会議に出頭相成度候也【あいなりたくそうろうなり】」なるもの之也。速達にて郵送し来る。
予は実に心外千萬〈センバン〉の感じを抱ひた。
引退前、已【すで】に告訴者【注】あることは承知しありし故、あつさり聞取るのであろうと考へたし、川島〔義之〕前陸相及安井少将へも、電話にて打合せることもせなかつた。
でも腑に落ち〔ぬ〕のは辱職【注】の文字。
八日朝、寸時で帰つて来ること言ひ残して、定刻出頭して見れば、匂坂の態度は、派閥関係等を聞き、又統帥関係に深く立入つて聞く。
例へば、弾【たま】を打たせぬことと、軍隊の戦備のことが喰違つて居るではないかとか、第一師団がぐずぐずして居て何等戦備を整へて居なかつたではないかなどゝ問ひ、中にも「あなたは戒厳司令官として何の手柄をもして居ないではないか。奉勅命令に由て事が収つたんだ」と云ふに至て、甚だけしからぬ事と感じた予は、励声疾呼【れいせいしつこ】した。
「勿論、事態の一段落は大稜威【みいつ】の然らしむる処である。東京市長の感謝の宴に招かれて、予は答辞にも、自分は之をはつきり言明した。乍去【さりながら】、大稜威〈オオミイツ〉の下、具体的行動に由り事態に処するのが吾人の職務であり、予は真に国家を救ひ、陸軍を救ひ、徴兵令を救つたと確信する。ゼネラル香椎の名は世界に伝へられたと、海外通信で承知して居る。君等が法文の末に拘泥【こうでい】して予を罪せんとするならば、何おか云はんや、だ。只だ予は快く服罪せぬまでのことだ」と、且つ怒鳴り且つ睨【にら】み付けた。
こう云ふ場面の中、予を収容する積りならんと予想せざるを得なかつた。
正午になつた。食事仕様ふ〈シヨウ〉と云ふ。此処でか、と問へば、帰宅されても宜しと云ふ。
即、急ぎ帰宅して要点を物語り、本日は収容さるゝやも知れぬ。就ては小供達は少しも臆する処なく通学せしめよ。又家は計画通りに堂々と建築を進めよ。予に一点の疚【やま】しき事なし、と云ひ聞かせ、匆々【そうそう】昼食を済して、再び軍法会議に出頭す。【以下、次回】
本文中の「告訴者」について、次のような編注がある。告訴者=特設陸軍軍法会議の予審段階で被告の栗原安秀、磯部浅一、村中孝次の三名が香椎戒厳司令官(川島元陸相、荒木〔貞夫〕・真崎〔甚三郎〕大将、山下奉文少将らを含む)を叛乱幇助〈ホウジョ〉罪で告発した。
本文中の「辱職」については、次のような編注がある。辱職=陸海軍刑法において、軍人の特別任務に違背する不名誉の行為をした罪を辱職罪という。
また文中、「安井少将」とあるのは、安井藤治(とうじ)少将のこと。事件発生当時、東京警備参謀長兼東部防衛参謀長。事件発生後、香椎戒厳司令官のもとで、戒厳参謀長。二月二六日、宮中の香椎戒厳司令官から、電話で「陸軍大臣告示」を伝達されたとされる人物である。