◎勅勘をこうむった以上、わしはなにもできん(真崎甚三郎)
中野五郎『朝日新聞記者の見た昭和史』(光人社、一九八一年一一月)から、第六章「日本軍、東京を占領す――二・二六事件――」を紹介している。本日は、その九回目。「二十五」の前半を紹介する。
二十五
私は当時、朝日新聞社会部の相沢〔三郎〕中佐公判担当記者として、世田ヶ谷一丁目一六八番地の新築早々の真崎〔甚三郎〕大将邸を再三たずねて、将軍とも数回会って、いろいろ意見を聞いたことがある。
そのときに私がいちばんつよく印象づけられた点は、この陽焼けしたあから顔の質素な田舎の村長さんのような風采の老人が、急進的な国家革新派の軍人の巨頭とはどうしても思われなかったことだ。私はもっと眼光炯々〈ケイケイ〉とした熱弁の鬼将軍の風貌を想像していただけに、かえってかざらぬ口下手の真崎大将には好感がもてた。おなじ皇道派の重鎮として相たずさえていた荒木貞夫大将が、陸軍大臣として華やかなりしころ、ピンとはった得意のカイゼルヒゲと青白い顔で革新的な熱弁をふるっていた才子型の派手なようすとくらべると、真崎大将はじつに地味な鈍重な印象をあたえた。
ところが、この人の好さそうな老将軍が、ひとたび教育総監更迭問題におよぶや、にわかに語調をかえ、満面に朱をそそいだように激情をしめしたので、私はおどろいた。それほど、彼はこの問題に怒り、こだわり、帝国軍人として面目をつぶされたことを無念に思っているようであった。そして、彼をこの要職より追放した統制派の陰謀者たちを心の奥底より憎悪し、呪詛〈ジュソ〉しているようにみえた。
なぜならば、これまで陸軍の永いしきたりとして、陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三長官の人事は三長官の同意を要することになっていたにもかかわらず、昭和十年七月、統制派の林銑十郎〈センジュウロウ〉陸相は、永田〔鉄山〕軍務局長の策謀に応じて部内の皇道派を粛清するため、閑院宮〔載仁親王〕参謀総長をだきこんで、真崎大将の同意をうることなく、二対一の多数決で勝手に教育総監の更迭を断行、発令したことは天皇の統帥大権を干犯した大逆行為である――というのが真崎大将の憤怒の理由であった。しかも彼の後任には、統制派の大物の渡辺錠太郎大将(航空本部長、台湾軍司令官を歴任した政治色のない温厚な人物とみられていた)が任命されたことも、老将軍をいっそう痛憤させたようだ。
「よくわかりましたが、もし三長官の同意を要することを無視したのならば、閣下は、なぜあくまで正々堂々と更迭問題について反対、抗議されなかったのですか?」と私は青年記者らしい熱意をこめて、思いきってたずねてみた。相手はさすがに胸中の激情をおさえるように、ふとい両腕を組んでしばし思案していたが、まるではき出すように、
「あれは勅勘〔勅命による勘当〕である。勅勘をこうむった以上、わしはなにもできん。残念ながら、わしの生きている間にこの勅勘をといて汚名をそそぐことはできないが、わしがけっして間達っていたいことと悪いことをしなかったことについては、わしの子孫に遺書を残して十分にあきらかにしておく覚悟である……」
これは、いかにも実直が忠誠の古武士が、はからずも勅勘をこうむったため自己弁解の余地なく、無念至極ながら謹慎しているといった心境であった。要するに、かれは陸軍最高地位の一つである教育総監として、青年将校の訓育のみならず、重大時局にさいして帝国軍人の士気振興の重大責任をになう軍長老として、皇道精神の鼓吹【こすい】におおいに努力してきただけに、あくまで自分は正しいと信じていながら、天皇と直結する閑院宮参謀総長まで、彼の反対側にたった以上は、もはや理非曲直をあらそうことができず無念の涙をかみしめていたわけだ。
しかし、かれもまた人間である以上は、とくに明治の建軍以来、軍部内では薩摩だ長州だ佐賀だと出身地や先輩、後輩をめぐる派閥感情が一般社会よりもはなはだ強く、職業軍人の通癖になっていただけに、かれを敵視する統制派の陰謀によって、教育総監の栄位を追われたことをあきらめきれず、かれのもとに出入りする青年将校有志に、胸中の鬱憤をもらすことがしばしばあったようだ。
一方、真崎大将に皇道精神の大先達のように心服し、慈父のように敬愛していた青年将校一派は、この問題をおおきくとりあげて、「統帥権干犯」という錦の御旗をおし立て、軍中央部の統制派へ「天誅」の大鉄槌をくだすために決起した。
それで、正体のあいまいな「絶対天皇制」は、まるでフットボールのようにおなじ皇軍部内の皇道派と統制派のあいだの血みどろな争いに利用されたわけだ。かくて永田軍務局長は相沢中佐に暗殺され、また、渡辺新教育総監は二・二六事件の血祭りに上げられたのである。【以下、次回】