◎藤子不二雄Ⓐさんの代表作は『少年時代』です
藤子不二雄Ⓐさんの訃報を聞いた。東京新聞記事(四月八日23面)は、「『まんが道』『忍者ハットリくん』『笑ゥせぇるすまん』などで知られ……」と書き起こしている。しかし私は、この「代表作」のセレクションに異議がある。藤子不二雄Ⓐさんの代表作にして最高傑作は、『少年時代』だと信じているからである。
訃報を聞いて、講談社コミックの五巻本を取り出した。第五巻の巻末には、「藤子不二雄」署名の「あとがき」がある。本日は、これを紹介し、故人のご冥福を祈りたい。
あとがき
〝少年時代〟への長い道
ぼくが最初に読んだ柏原兵三【かしわばらひようぞう】氏の作品は「ベルリン漂泊」だった。
「ベルリン漂泊」は日本人の留学生一家が、ベルリンで下宿さがしに苦労する悲喜劇である。
異邦人であることと、赤ちゃんがいることのために、転々と下宿を移らなければならない主人公一家のベルリン漂泊記を、デティルを積み重ねて具体的に描写した、この不思議な長編小説を読んで、ぼくはすっかり柏原三氏のトリコになってしまった。
ちょうど柏原兵三文学全集が刊行されたので、さっそく揃えて、少しずつ読んでいった時にめぐりあったのが「長い道」であった。
「長い道」(昭和44年、講談社刊)は、作者が昭和19年4月から20年(終戦の年)9月まで、富山県入善町【にゆうぜんまち】吉原に疎開、約2キロはなれた上原小学校へ通学する時、同級生にいびられた体験を中心に、少年の疎開生活を描いた長篇小説である。
「私は戦争中一年半ばかり、父の郷里に縁故疎開をしていた。その疎開地の子供の世界で、しかし私は他所者【よそもの】としての扱いを受け、土地の子供たちの、いいなぶり者になる日を経験した。その経験を元にして、私は人間の政治的状況の象徴図となるような小説を書こうと企て……」中学二年生の時から、この「長い道」を書きはじめた、と柏原氏はのべている。
ぼくはこの「長い道」を読んで、なんともいえない衝撃と感動をおぼえた。
読み終わるのが惜しいという気持ちが強くはたらいたが、それ以上に途中でページをおくことができず、結局、一晩でこの長篇小説を読み切ってしまった。
ぼくと柏原氏とはまったくの同世代だ。
しかしこの「長い道」を読むまでは、うかつにも小学5年生の柏原氏が昭和19年から20年にかけて、富山県下新川【しもにいかわ】郡へ縁故疎開していたとは知らなかった。
まったく偶然ながら、小学5年生だったぼくも、また昭和19年から20年へかけて、ところも同じ富山県下新川郡へ縁故疎開していたのだ。
ぼくが疎開していたのは、(母と弟と三人で)山崎村という山村の長養庵という尼寺【あまでら】だったが、柏原氏の疎開していた入善の吉原という漁村までは、それこそ10キロあるか、ないかという距離だったのだ。
そして、ぼくもまた、他所者【よそもの】として村の小学校(当時は国民学校といっていたが)へ、長い道を通ったのだ。
それだけに「長い道」の主人公の少年の心情がいたいほどよくわかったのだ。
もちろん、「長い道」は、そういったぼくの個人的な共感を別として、じつにすぐれた少年小説(少年読者を対象にして書かれたものではないけれども)であり、すばらしい青春小説であり、そして、権力闘争の縮図をとらえた興味あふれる政治小説といえる。
だがぼくが一番惹かれたのは、疎開してきた都会の少年潔【きよし】(進一)の村での親友であり、そしてまた、もっとも憎むべき敵である同級生の進【すすむ】(タケシ)の奇怪なキャラクターだ。
進少年は五年男組の級長で、村の国民学校でも一番の秀才である。その上、弟妹【ていまい】の面倒や、家業の手伝いも骨惜しみなくするので、村でも評判の感心な子だ。
東京から疎開してきた孤独な潔は、この進に会い、彼こそはこの村での、自分の最大の理解者になってくれるだろうと思う。
事実、家では、進は潔に対して思いやりがあり、やさしい。
だがひとたび学校へ出ると、進は百八十度豹変して、横暴な独裁者としてよそ者の潔をいたぶるのだ。
〈僕は心の中で進に呼びかけた。進! いま君はそんなにやさしい。しかし、学校や学校の往き帰りの君の、僕に対する仕打ちはいったいどうなんだ。あれは君の偽りの姿なのか……〉
潔は進の表裏【ひようり】ある仕打ちに深く悩み、傷つく。この二人の葛藤【かつとう】は、終戦になって潔が東京へ帰るまでつづく。
進がクラスのもののクーデターにあい、権力を失墜し、はじめて二人が対等の立場になった時、皮肉にも別れがきてしまう。
〈進にとって、僕は闖入【ちんにゆう】してきた異物のような存在だったのではないだろうか、彼の君臨していた秩序は、僕の闖入のために乱され、彼は僕に自分の力を誇示するために、必要以上に権力を揮った――そしてそのために私刑【リンチ】にあってしまった。だから被害者は僕ではなくて、むしろ彼の方なのだ……〉
【一行アキ】
ぼくはこの「長い道」を読んで、なんとか「長い道」を漫画化して、その感動を少年読者につたえたいと思った。
潔という魅力あふれる特異なキャラクターと、主人公でありながら主人公でない、ひよわな都会少年のとまどい、おびえ、自己嫌悪に悩む心情のゆれ動きを漫画で描いてみたかった。こういった少年たちは、今までの少年漫画にはまったく登場したことがなかったからだ。
ぼくが「長い道」をはじめて読んだのは、いまから9年前、昭和45年である。
漫画化したいとは思ったものの、当時すぐに実行にうつすには、自信も準備もととのわなかった。
そうこうしているうちに47年、とつぜん柏原兵三氏がなくなられてしまったのだ。まだ三十八歳であった。
柏原氏の亡くなられたことは、ぼくにはショックだった。最初に「長い道」を読んだ時に、すぐ手紙でもさしあげればよかった、と自分のルーズさが悔やまれてならなかった。
ぼくは「長い道」について、柏原氏と話しあう機会を永久に失ってしまったのだ。
まるで「長い道」の潔と進のように。
だがそれ以後、ぼくは真剣に「長い道」の漫画化と取り組んだ。
柏原夫人にお会いして、許可をもらうべくお願いした。そして快諾を得たことがなによりの勇気づけとなった。
ぼくは夫人に、原作の基本的なものは絶対に生かしたいが、ただぼく自身の原体験も、すこしはおりまぜたいともお願いして、これにも快くお許しをもらった。
ぼくは早速、富山の下新川【しもにいかわ】へいって、「長い道」の舞台になった吉原町や上原小学校、それと、ぼくの疎開していた山崎村や山崎小学校などをまわった。
戦後30余年、もちろん大変化はあったが、まわりの海や山は昔のままで、ぼくはタイムトリップして、あの時にもどったような不思議な気持ちになった。(この時、下新川のいろいろな方々に実に親切な御協力をいただいた。ここでお礼を申し上げたい。)
こうして準備はだいたいできたが、まだ難問はあった。こういった、一見地味な題材の作品を競争のはげしい少年誌に連載するのには、よっぽどその編集部の理解がなくては続かない。
作品が作品だけに、いわゆる大ヒットするようなものではない。だが、たとえ少数でも、ぼくが「長い道」で受けた感動を共有してくれる読者がきっといるだろうとの確信はあった。
いろいろの紆余曲折をへて、週刊少年マガジンで、昭和53年の夏から、54年の夏までの一年間、連載することになった。
「長い道」を単行本として出版した講談社の、週刊少年マガジンに連載ということも何か縁であろう。
タイトルを「少年時代」として描きだしたこの作品は、予定どおり、一年間にわたって連載した。
連載中は予想どおり、さしたる反響はなかった。(もし少年マガジン編集部の理解ある後押しがなかったら、中断していたかもしれない。一年間がんばって、この一見地味な作品をつづけさせてくれたマガジン編集部には深く感謝している。)
ところがこの夏、連載が終わったとたん、突然たくさんの読者から手紙をもらった。
そしてそれからの手紙の末尾には、ほとんど〈原作の「長い道」を読みたいのだが、どうしたらいいか〉ということが書きそえられてあったことが何よりまして嬉しかった。
これらの手紙を読んで、ぼくははじめて、この「少年時代」を描いてよかった、と思った。
昭和54年9月6日 藤子不二雄
ちなみに、講談社コミック版の『少年時代』を見ると、背表紙にある著者名は「藤子不二雄」、奥付にある「著者」は、「柏原兵三/藤子不二雄」となっている。