◎社会の恐ろしさが私にのりうつる(見田宗介)
見田宗介(みた・むねすけ)さんの訃報を聞いた。東京新聞記事(四月一二日22面)は、「学問分野の壁を越えて、現代社会の構造や心理を分析した社会学者」と故人を紹介していた。
たまたま手の届くところに、見田さんの『現代日本の心情と論理』(筑摩書房、一九七一)という本があったので、開いてみた。本日は、その中から、「鬼になること」というエッセイを紹介させていただこう。文中、傍点は、太字で代用した。
鬼になること
「三池CO患者遺族を守る会」の新聞『みいけ』では、炭鉱労働の歴史を掘返す作業をおし進めている。
大正のころ、三人が一切羽〈イチキリハ〉で採炭をすると、一人が先山〈サキヤマ〉で炭を掘り、二人がかつぎ出していた。先山・後向きはふつう夫婦で、これに新入り一人がつくと、新入りは仕事が八分通り終ったころから女にどんどんせきたてられて、くたくたになって動けなくなり、坑外に途中で上がることになる。そうすればその日の賃金はなく、坑内に残った夫婦で三人分の金をとる。だから女は意地悪だった(八六一号)。
昭和三十四年のこと、貨金遅払いで飢えに追込まれたある小さなヤマの人たちが「人を殺す位は朝飯まえ」というヤマの暴力支配に抗して、盲目のボイラーマンを先頭に組合を結成した。ところがこの生命がけで作った組合は「小さな組合は組合費を使うばかりだ」とのことで炭労への加盟を断られてしまい、炭鉱とともに消え去った(八六六一号)。
べつに炭労が古顔の夫婦だということではない。炭労にも苦しい事情はあっただろう。ギリギリの条件で生きる人間が、たがいに「面倒をみきれない」ところでつき放さねば生きられない構造が、今日も変っていないということ。貧しい「私」が「鬼」にならねば生きてゆけぬということは、ちょうどキツネが人に憑くように、社会の恐ろしさが私自身の恐ろしさとして「私」にのりうつるということだ。 (四・八)
末尾の(四・八)は、初出の日付(朝日新聞「標的」一九六九年四月八日)を示している。