◎ひどい言葉で喰ってかかって来た者もいた
中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)の紹介に戻る。本日は、その十五回目で、第二部「農地改革」の4「二つの基本政策」を紹介する。この章はかなり長いので、何回かに分けて紹介する。
4 二つの基本政策
この村の未墾地解放は、村の農地委員会によって幾らか行なわれていた。その相手は多くは不在地主であり、村内では大地主の所有地からであった。不在地主は抵抗少なく、大地主も三町、五町は問題にしなかった。しかし、これらは例外的なもので、すぐに頭を打ってしまった。
四日市という部落に住む村会議員で、地主で、牛商人で、村一番の搾乳家で、酪農組合の支配者である横山という男が、畑の真中に五、六反の採草地を残していた。これを開拓したいという者の申出によって、小作委員たちが買収しようとした。当時委員会の構成は、地主委員三名、小作委員五名、自作委員二名であったから、小作委員が結束すれぱ、自作委員が地主側に荷担しても同数となって、提出議題が否決されるはずがない。しかし、これら小作委員の中には、酪農組合の書記がいたし、自作委員の一人は、自作以上に地主であった。したがってこのときの議案は、採決に当って簡単に葬られてしまった。このとき以来、村農地委員会による未墾地買収は機能を停止していた。
開拓事業が村の基本政策となるや、未墾地の買収は、村の農地委員から、県の委員会に移ってしまった。村委員会は十町歩以下の小団地しか買収出来ない規定だったからである。買収は県の委員会にかかるが、調査は主として県の係官がこれに当り、めんどうな問題には委員も出て調査した。昭和二十二年〔一九四七〕、村長に就任して二ヵ月ばかりたったころ、第一回の未墾地調査が九戸〈クノヘ〉郡の地方事務所の係官によって行なわれることになった。この調査の通知がはいったとき、私は関係地主を村役場に集めた。未墾地解敖は、そのころ例外的にしか行なわれておらず、殆んど者は何のことかも知らなかったのである。それに小作地と異って、適地に当った者の中には、小所有者も多く、ただ一つの財産たる山林が、一坪も残らず買収対象となっている者もいた。すなわち自作農であって、地主ではない者もはいっていたのである。私が最も心配したのは、この小所有者のことである。こうした人々には、買収した土地をそのまま開拓地として配分し、還元すればよかろうと考えた。それで調査官が来る前に、種々これらの点を説明し、納得せしめて、余計な憂慮から彼らを解放しておこうと思ったのである。
このとき、村役場の二階に集った人々は、二十名に近い数だったと思う。私は当時の食糧不足を訴え、開拓事業が政府の重要施策なる所以を述べ、村民を貧困から救う途はこれを遂行する以外にはない旨を力説し、目的にしてかくの如きであるからは、自作農を困らせるようなことは絶対にしない。還元配分の方法によって必らず善処するからと説明して協力を求めた。
しかし幾らいっても、人々の顔からは、不安と不満の色が消え去らず、中にはひどい言葉で喰ってかかって来たものもいた。これは五十年輩の女であったが、ヒステリックな声で無茶なことをいうので私が苦笑したら「何がおかしいか、人の死ぬ生きるの問題に笑いごとではないぞ」という。私も短気なので、「笑って悪いなら、怒ればよいというのか」と語気を荒らげたら、少し落ちついた。このようにしてこの集まりは、両方ともに不満のまま散会した。しかしこれによって私は、この仕事は容易なものではないことを自覚した。【以下、次回】