◎こんな宝を抱いていながら貧乏するとは
中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その十二回目で、第二部「農地改革」の3「農地改革」の続きを紹介する。同章の紹介としては二回目。
両者の陣営がはっきりと分かれ、互に敵対意識をもちはじめたのは、私が未墾地解放の問題を、村の基本政策の一つとしてとり上げて以来である。地主たちにとっては、その時まで農地改革は小作農地の解放を意味するに過ぎなかった。未墾地の解放は、別に加えられた鉄槌を意味し、心の用意もなかったのである。耕地の場合は、温存出来るだけはするにしても、或る程度の解放はやむを得ないものとしていたようである。私とすれば、耕地の解放にそれほど興味をもてなかったなは、自分が特別の力を傾注しなくとも、その開放は出来ると思われたからであり、また全小作地を徹底して解放してみても、それだけで貧農の生活は確立するものと思われなかったからである。小作地の面積は二百町をこえており、全耕地面積の三分の一以上に及び、小作人の数も全農家五百三十八戸のうち二百九十五戸と五五パーセントにも達していたので、その解放の意味は小さいとはいえない。しかも五割、六割という過重な小作料から脱出するのだから、その分だけでも、たしかに解放であり、経済的向上にもなる。
しかし、これだけでは、事態の部分的改善ではあるが、問題の解決ではない。というのは、個個の農家の耕地面積が小さすぎて、小作地全部の解放をうけたとしても、自作農として立ってはいけないからである。すなわち当時の小作者と耕作面積は次のようになっていた。
純小作 小作兼自作 自作兼小作 自作 計
三反未満 五八 六 七 二八 九九
三反以上五反未満 二六 六 四 二三 五九
五反以上一町未満 四四 二一 二五 五七 一四七
計 一二八 三三 三六 一〇八 三〇五
当時この村では、畜力による農耕はきわめて稀れで、人間が足で踏む鋤〈スキ〉が殆んどであった。主要農具がこれだから、生産技術一般もこれに応じた原始的なものであった。それに四〇〇米以上の高冷地帯だから、一町歩〈イッチョウブ〉の耕作面積では、家族の食糧をなんとか自給出来る程度であった。家族の数は、一戸当り平均七人強である。したがって、五反歩〈ゴタンブ〉以下の耕作では問題にならないのに、その戸数は百五十八戸で、人口にして一千百人もある。一町歩に満たないものは三百五戸で、二千百三十五人ということになる。
そこで、全体として耕地面積を増加する方法がない限り、問題の解決はあり得ないと思われた。私は役場附近の地勢は知っていたけれども、少し離れた部落については全く無知であった。そこで役場の吏員たちに、この村には開墾出来るような広い場所はないかと訊いてみた、そうしたら、戦争中に飛行機の不時着したとこともあるし、クレツボの上の方もかなり広いということであった。私は独りで、クレツボの上まで上って行った。
少年のころ運動会をやった場所は、いまは小松の密林になっていてはいることも出来なかった。ここは高原の入口であった。その上に墓場があり、墓場の周辺は赤松と落葉松〈カラマツ〉の林であったが、さらにその上の方は、ひろい草原である。小高いところに上って見渡したら、その広さは私を興奮させるに十分であった。こんな場所を、ただ雑草を生やしたり、木の生えるに任して放って置くとは不合理なことである。こんな宝を抱いていながら貧乏するとは、何と馬鹿げたことだろうと思った。私はながい間そこに立っていた。ここを全面的に青畑にしたときの夢が去来した。高原のかなた、川向うの山には春が来ていた。しかし背後の山々にはまだ残雪が白かった。宮古島の戦地で夢見たふるさとの墳墓の地、クレツボの草原は、新らしい意味をもって、いま私の眼前に現われたのである。【以下、次回】