礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

出発から強力な社会的障害に逢着した

2022-04-13 00:46:17 | コラムと名言

◎出発から強力な社会的障害に逢着した

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その十四回目で、第二部「農地改革」の3「農地改革」の続きを紹介する。同章の紹介としては四回目(最後)。

 私は開墾という仕事に対してはそれまで懐疑的であった。岩手開拓公社が、開拓事業を第一の目的としていたが、開拓工事の請負いならともかく、入植者の世話までしようという考えには、自信がもてなかった。のちに国と県がその仕事に当るようになったが、会社創立時は、われわれが開墾工事から入植者の営農指導、生産吻の加工販売まで担当する方針であった。ところがいろいろ研究を重ねるにつれて、開墾入植という仕事は、はなはだ悲観的なものに見えて来た。十分の資本をもってはいるものは別として、無一文の転廃業者や失業者、農家の次三男たちに、どうしてこの仕事をやり遂げることが出来よう。雪が四月にはいってさえ降る。五月にはいれば種子〈タネ〉を蒔かねばならぬ。その年の作付〈サクツケ〉は、せいぜい春の四十日か五十日の間に開墾された面積に限定される。それが秋を待たねば食糧にはならない。立木を伐り〈キリ〉、抜根〈バッコン〉し、と書けば簡単だが、この抜根作業というものがいかに困難なものかは、経験のないものには判らない。私は内原訓練所で、小さい櫟〈クヌギ〉の根にも悩まされた経験がある。それに、入植者は住む家から建ててかからねばならない。新らしく家を建てるということは、一人前の人間でも一代の仕事である。考えれば考えるほどこの仕事に困難ばかり見えて来るのである。政府の保護はあっても、とうてい足りるものではない。
 開拓に対しては、このように懐疑的であったが、この村に即して考えてみたとき、私は困難でも可能だと思うようになって来た。第一にここの開拓は、村の中に住んでいて、土地をもたないもの、土地の少ないものに与えるのが目的なので、他から入り込んで来るのではない。したがって、地元にいて何とか生活しているものであり、次男三男でも実家があって食うには事欠かないはずだ。これなら出来ると考えた所以である。
 しかし人間の手でやっていては、刻下の食糧不足に間に合いそうもない。何とかして、機械で一挙にやりたいと思った。そこで開拓公社の岡部〔岩雄〕氏に相談してみた。岡部も乗り気で、トラクターを手に入れ会社で請負ってやろうということだった。かくして、技術的には成功するという確信が出来、地方事務所に調査を依頼した。技術的にといったが、その頃は技術的なもの以外に別の障害があるとは考えていなかったのだ。耕地をふやして土地のない人々に頒つ〈ワカツ〉、誰でも生活が楽になる。有史以来の努力で、いま村には六百町足らずの耕地が出来ている。それを数年にして三倍にするのだ。この意義がどんなに大きいか。そうした考えに自ら興奮し、非常に良いことをするのだという意識だけで、これに反対する者があろうとは最初思いもしなかったのである。しかし、いざやり出してみると、出発から、技術的障害以上に強力な社会的障害に逢着〈ホウチャク〉し、戸惑いせざるを得なかった。

「内原訓練所」は、茨城県東茨城郡下中妻村(しもなかつまむら)内原にあった農業移民の訓練所。一九三八年(昭和一三)年設立、所長は加藤完治(かんじ)。満蒙開拓青少年義勇軍を訓練したことで知られる。

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