礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

地主側は当初は結束していなかった

2022-04-10 03:06:52 | コラムと名言

◎地主側は当初は結束していなかった

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)の紹介に戻る。本日は、その十一回目で、第二部「農地改革」の3「農地改革」を紹介する。この章は、かなり長いので、何回かに分けて紹介する。

   3 農 地 改 革
 農地改革はすでに出発していたが、サボタージュされていたことはさきに述べた。にもかかわらず、小作地の解放も行なわれつつあったし、開墾小団地の買収も、少しはあったようである。
 私は復員後、しばらくこの問題を知らずにいた。二十年〔一九四五〕十二月末、復員の途中で一戸〈イチノエ〉の兄の家に立ち寄った。そのとき兄から「お前も再び東京へ出るのもよいが、向うはひどいようだから、こちらへ止まって百姓してはどうか」という話があった。そして、その気なら耕地三町歩に林野も幾らかつけてやるし、住宅も厩〈ウマヤ〉も建ててやるというのであった。私は決心がつかず、妻子のところへ帰って相談してから返事をすると答えたら、建築の準備があるからすぐ返事をよこせといわれた。帰って妻や母に相談した上、それでは御親切に甘えさせて頂きますと書いてやった。しかしその後、この問題には兄は一言もふれなくなったので、不思議だと思っていた。あとになって、このころすでに農地改革が地主たちを悩ましていたことを知った次第である。
 どの地方でも、地主たちの自己防衛は真剣に行なわれた。地主と小作者の力の関係だけが、その地方の農革を決定した。地主勢力の強い農村では、農革〔農地改革〕の暴風が、ただ頭の上を吹いて通ったようなところもある。概していえば、不在地主の所有地は順調に解放されたし、既墾地の解放は、未墾地ほど抵抗が強くなかった。この村でも解放はまず不在地主の土地から始められた。地主勢力は、他地方に比べて強い方であったが、小作者も農民組合を作って結束をかためつつあった。ただ地主側は、当初は結束していなかったし、小作者側も、農民組合をもったとはいえ、その組合員には小地主や自作農まではいっていたので、本当に強力なものになるわけはなかった。そして組合員同士で、他人をだしぬいて地主と取引をし、土地の不法取得を計るものもいた。【以下、次回】

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