礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

藁にもぐって寝る者は昔よりもふえただろう

2022-04-05 02:03:06 | コラムと名言

◎藁にもぐって寝る者は昔よりもふえただろう

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その八回目で、第二部「農地改革」の2「村長・村民・村会議員」を紹介する。この章は、かなり長いので、何回かに分けて紹介する。

   2 村長・村民・村会議員
 村長になってみたものの、さして当って何をやるべきかの見当もついていない。毎日役場に出ていろいろの人と会い、いろいろの話を聞いた。子供のころに見聞きしたように、百姓のうちには今でも藁の中にもぐって寝る者があるかときいたら、昔よりもふえているだろうという。大部分のものは食糧に窮していた。昔は各種山菜はもちろん、楢〈ナラ〉の実を主食の代りにしたのが随分いた。たいていの家庭では、年に数回はこれを食べた。その回数が貧富の差によって異なるだけだ。このドングリを蒸して表皮をむくと、中の実は真黒である。それに黄な粉をかけて食うのである。砂糖を使う家庭はまれであった。今はどうかときいて見ると、戦争中から一層多く食えるようになっているとのこと。季節の野草山菜も、いまや副食の域を脱して主食と化していた。
 牛乳を飲めばよいように思われるが、乳牛をもっている農家は、全戸の五分の一にも足りない。しかも牛乳は酪農組合を通じて、全部守山工場〔守山乳業〕に送られ、個人にはめんどうがって売りたがらない。売るとしても、母工場へ入れる価格より三割ぐらいは高くとる。私は妻子をこの村においた間、一日一升の牛乳とさらに一升の山羊の乳で食いつないだが、百姓には牛乳を買う現金などないのだ。配給米がいよいよ逼迫したときには、牛乳を供出させて米の代りに配給しようと考え、或る席上で話したことがある。そうしたら、のちに或る中立の人から、あんなことをいう村長さんの考えは甘いといわれた。いま牛乳を出している連中が、そんなことに応ずると思うのは、単純すぎるというのである。なるほど、工場とこれにつながる酪農組合が、これを許すはずはない。たとえ人道の問題であってもそれで動く人々ではなく、さらにまた私が彼らを見るよりは、彼らの方が私をはるかに敵視し、邪魔に思っていたのだ。しかし時日が経って現実にぶつかるまでは、私はまだ甘い考えから脱け出ることが出来なかった。
 食糧は大衆の間では不足していたが、自作上層以上と地主たちの土蔵には、それぞれの程度に応じて、貯蔵されていた。各地から担ぎ屋が乗り込んで来て、こうした穴から持ち出して行った。村内にもヤミ屋が簇生〈ソウセイ〉し、主として国境〈クザカイ〉峠を越して、隣村の小川炭鉱にもち出されていたようだ。米の配給所は、この時期に産を成したという噂であった。
 村内には二百戸もの家庭に電灯がなく、昔ながらのランプなのだが、石油の配給が乏しく、雑穀などを炭鉱にもって行き、カーバイトを手に入れているものもあり、松の根を燃やして明りをとるもの、或いは炉の焚火〈タキビ〉で間に合わしている家も相当にあったうだ。かんじんの電灯さえ、石油ランプの光より暗く、夜に本など読める明るさではなかった。
 衣類にしてもみな然りで、ぼろでも寒さをしのげればよい方で、ズボンがなくて働くことも出来ず、いろりの火にあたっている老人の話もきかれた。
 百姓が都会人から、いままで見たこともないような立派な衣類をかき集め、そのあくどさを恨まれたのは、まさにこの時代なのだけれども、この村の百姓たちの大部は、都会人どころのさわぎではなかった。まったく原始の時代に帰ったような生活だった。【以下、次回】

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