◎カザリン颱風で村の水田はほとんど全滅した
中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その十八回目で、第二部「農地改革」の4「二つの基本政策農地改革」を紹介している。この章の紹介としては四回目(最後)。
たまたまこの年〔一九四七〕の九月には、カザリン颱風〔カスリーン台風〕の襲来があり、この村でも水田は殆んど全滅した。これは人々の禍〈ワザワイ〉には相違なかったが、同時にまた幸いに転ずる契機ともなった。その時、県の土木部の係官たちが、災害の跡を見に来訪し、建設省からの視察もあった。それがこの川の根本的な改修計画の端緒となった。それらの人々の中に、現在の河港課長の川田氏や当時の工務課長の重田氏のような人々がおり、また直接の担当者としては岩泉土木市務所長の伊藤掬次郎氏がいた。こうした人たちが、私たちが陳情もしない先に、すでに問題をとり上げてくれていた。伊藤所長は、測量の予算もつかないうちに、アルバイト学生を連れて来て、全河川の測量をしてくれたり、村に数人で来て農家に滞在し、ローソクの灯で設計書を作ったりした。そして翌二十三年〔一九四八〕再びアイオン颱風の来襲に会うや、いよいよ計画は具体化し、二十四年〔一九四九〕には着工の運びとなった。その後この工事は着々と進み、二十九年度〔一九五四〕中には殆んど完成するまでに至った。工事費の額に比すれば、それによって庇護される耕地の面積はきわめて小さい。この金を他の地方の工事に廻したら、その経済効果は比較にならないに違いない。にもかかわらず、この村の人々にとっては、面積の大小は価値の大小ではない。少ないものほど貴重なのだ。それを知ってここに莫大な費用を投じてくれた県や建設省の担当官たちには、私は村民たちと共に長く銘記することにより、またそれによって荒野を永久の耕土とすることによって応えたい。そしていまそれも進みつつある。
かくして二大政策のうちの一つは、僥倖ともいうべき順調な途を辿ることになったが、開拓政策は、日がたち月が進むとともに強い抵抗に逢い、これをめぐる争いは、その年のうちに熱い闘いとなって爆発し、それがおさまったかと思えば、また次の問題の原因となり、その後の村民生活を貫く太い緯となった。
末尾の「太い緯」は、原文のまま。ここは、「太い経」とし、経を「たていと」と読ませるべきであった。緯の読みは、「よこいと」である。