礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

窓口に客が来ても容易には腰を上げない

2022-04-06 03:32:03 | コラムと名言

◎窓口に客が来ても容易には腰を上げない

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その九回目で、第二部「農地改革」の2「村長・村民・村会議員」の続きを紹介する。同章の紹介としては二回目。

 一日も早く何かの策を進め、村民を地獄の底から引き上げねばならない。しかしそれより先に助役を決定しなければ、何事も手につかない。助役は選挙前に川戸〔与四郎〕氏と約束があったので、言ってやれば直ぐ赴任して貰えるものと思っていた。ところが、いざとなったら来れないという返事である。彼はこの村の貧農の出身で、村の小学校から、葛巻の高等科を出、村役場の小使から身を起し、長年書記をつとめたのち、下閉伊〈シモヘイ〉郡の支庁に転じ、さらに九戸〈クノヘ〉郡の地方事務所を経て、現在県庁にいる。勤勉、細心、他人の数倍も勉め励んで現在の地位を得た人である。頼む財とてもなければ、妻子をかかえて軽はずみな行動は出来ないわけである。先に村長立候補を奨められたときに固辞したのは、私よりも村の事情を知っていたからであろう。この村では、才能や手腕よりも身分や血統がものをいう。この人は自らと共に村民の感情に通じていたのだ。またその際は助役ならやるとはいってみたものの、任期は四年に過ぎず、五年目は誰も保証出来ない。政争の激しさの中に苦心した挙句に、四年で放り出されたとしたら、再び県に戻れるとは保証しがたく、実に危険な話なのである。彼が迷ったのも無理はなく、約に反して断わって来た気持も肯かれる。子供たちを学校に入れるのに盛岡にいなければ困る、という奥さんの意見で動けないというのが理由であった。
 しかしそれではこちらが困るので、約束を盾に無理やりに引っぱって来た。またも川原〔徳一郎〕君が引き出しの主役を買い、将来の生活は、心配させぬからといって承諾させたという報告であった。川原の口約はともあれ、私は彼を自分の運命にひきずり込んだことには、終生責任を感じなければならないことになった。
 助役が赴任し、彼は役場事務の一切に通じていたので、私はその負担から逃れることが出来た。しかし役場の吏員はもとのままである。十文字勝雄は農民組合結成の件で前村長と衝突し、すでに役場を去った後である。役場には中等学校を出た者はただの一人もいなかった。一通の文書を書くのに数時間を要するのはまだ我慢できるとしても、誤字、誤文がはなはだしく、それがすべて、江刈村長、中野清見の名で出されるのには閉口した。中には県知事宛の報告文書に、左記の通り相違ありますと書いたのもいたが、それも発送したあとで、控が廻って来るのでは訂正しようにも後の祭りであった。こんなふうだから、調査報告や、文書の返事など遅れたり全然果さなかったりしたものが随分あった。文書は、みんな係吏員が上役に見せずに納い〈シマイ〉込み、どういう問題が、どう処理されたかも、発信文書の控が廻って来ない限り判らないで済む。或る書記が退職するときなど、未決書類が一尺に積まれて、次の係に渡された。それでいて、皆のんきなもので、夏は火鉢を囲み、冬はストーブのまわりで、お茶を飲んでは世間話に花を咲かせ、窓口に客が来ても、容易には腰を上げないというふうであった。また酒を飲まない日は少なく、酔えば喧嘩して騒ぎ、翌日は宿酔で欠勤しても別に悪いことをしたとも思っていないのである。
 その上、吏員の半数近いものは、選挙以来、敵陣営とつながっており、私につけられたスパイの役割を果していた。日中役場で話すことは、その日の中に敵方に通じていた。デマでおびえたけれども、私が首を切らないと判るや、図々しく居坐ってスパイになったのである。指令によったのかも知れない。私はこれを逆用するより手はなかった。こんな山の中では、彼らの代りに有能な人間を入れるということは、急には出来ないことだったのである。【以下、次回】

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