礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

小作委員でさえ地主の飼犬のようなのがいた

2022-04-04 02:49:19 | コラムと名言

◎小作委員でさえ地主の飼犬のようなのがいた

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)の紹介に戻る。本日は、その七回目で、第二部「農地改革」の1「第一回村長公選」の続きを紹介する。同章の紹介としては三回目(最後)。

 あとで判ってみたらそれも道理で、職員中私の弟とこの栗村という男を除いては、全員向う側について私への反対運動をしていたのだそうである。収入役などは敵陣営の参謀といわれるだけ老獪な人間なので、何食わぬ顔でお祝いの挨拶に出たので、これは例外だったのだ。しかしまた彼らをそうさせた理由を聞けば、首肯されるふしもあった。私が村長になれば、役場吏員は全部更新すると私が言っているとのデマが流されていたという。実に巧妙な戦術であり、その後農地改革の闘争に際しても、こうした敵のデマ戦術は神技に近く、散々悩まされたものである。
 その後数日の間に、過ぎたばかりの選挙闘争の模様が細かく判って来た。私が盛岡にいて知らないでいるうちに、この村では階級戦の緒戦が戦われていたのだ。そして私は貧農たちのホープとして、その頭目となっていたのである。しかしこれは私にとって、心外なことではなかった。ただ漫然たる心構えから、自覚への一歩を進めざるを得なくなっただけである。
 私は当時まで殆んど知らずにいたのだが、このころにはすでに第二次農地改革は全国に発足し、この村にも農地委員会が出来ていたのである。小作者たちの一部のものは、これに希望をかけ、漸次仲間をひろげていたのであった。しかし遅れている村の例に洩れず、この村の地主勢力も圧倒的に強くて、彼ら自身の力でこれを打破することは至難の業に見えたのである。農地委員会では、会長は私が役場の引継をうけた代理肋役の岩泉儀信であった。彼も自ら小作地主であり、地主委員の代表であった。中立委員は殆んど全員地主的な色を帯びていたばかりでなく、小作委員でさえ、地主の飼犬のようなのがいた。その上に事務局の二人の書記のうち、上席は地主委員遠藤賢次郎の弟であった。そして委員会の運営は、今は追放された身とはいえ、前村長岩泉龍氏らの知能によって指導されており、全地主層の異常の関心と注視の裡にあったのである。これでは、委員会の議決で勝てる見込もなく、会議の招集権も向うの掌中に握られ事務的サボタージュも自由ということになる。
 村長選挙はこうした情勢をめぐってたたかわれた。全村を挙げ、一戸一戸が関心をもった選挙というのは、このときが最初である。その結果は直接生活に響き通って来るのである。貧農たちも必死の陣営を張り、女や子供たちも大人の指令をうけて夜半軒から軒と歩いたということだ。にもかかわらずここにはまだ盲点があったのだ。みんなの目は私に向けられていたけれども、その焦点が合っていなかった。地主たちにも私が乗り込んで来て果して何をやるのかも判っていない。村内の空気が刷新されるということだけなら、少しの例外を除けば、誰にでも魅力だ。それにあとで判ったことなのだが、この選挙の母胎となった農民組合に中には、自作農はもちろん、小地主さえも組合員となってはいっていた。その名前さえ江刈村農民協同組合となっていたのである。それは結成当時の主体的条件の弱さをそのまま反映したものに違いない。だから、この選挙では地主層に属するものでも私に投票したものがあり、階級性が貫かれたのではなかった。
 この選挙における勝利の経験は、貧農たちの自信を高め、意気を昂揚させた。とりわけ、有頂天になったのは、農民組合長の山村繁蔵と川原徳一郎であった。山村は私の前でも、この村長はよかれあしかれ俺が連れて来た村長だからと、他の人々にいうのが常であった。かげでは何をいったか判らない。こうした陶酔がその後またしばらくは続くことになった。

 文中、「小作地主」とあるのは、文脈からすると、「農地を小作人に耕作させている地主」という意味と思われる。だとすれば、その対語は、「自作地主」(農地を自分で耕作している地主)ということになるか。

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