礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

開拓と河川改修の両方をやりぬく心算だ

2022-04-17 00:01:16 | コラムと名言

◎開拓と河川改修の両方をやりぬく心算だ

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その十七回目で、第二部「農地改革」の4「二つの基本政策農地改革」を紹介している。この章の紹介としては三回目。

 こうして私が村長就任と共にとりあげた基本政策の一つが、出発早々ひどい障害に乗り上げた。もう一つの政策は、治水であった。馬淵川が村の真ん中を貫流し、山と県道の間を蛇行していることは前に述べた通りであるが、長い間に上流から砂礫を押し流して来て河床を埋め、両岸の耕地とすれすれの高さになっていた。また、県道にぶつかれば、山の方向に曲り、山にぶつかれば再び県道めがけて流れるというふうに蛇行をくり返していた。したがって、ちょっとした洪水になれば、両岸の耕地は水びたしになるし、その都度河床が処を替えて、耕地が押し流された。百姓たちが苦心して水田を作っても三年とはもたず、また元の河原に化してしまうという状態であった。そのために、相当広い面積が荒野となって放置され、葦や野茨〈ノイバラ〉、くるみや柳の生えるに任されていた。そしてここが野鳥の好適な棲家となり、五月に入るとどこからともなく集まり来り、六月最盛期となって、昼夜をおかず囀っていた。村役場の真ん前のあたりが、一番奥深い藪で、あらゆる種類の鳥が集まった。朝は未明のうちから、鳥の声で眼を覚ましたものである。子供のころには、この藪の中をくぐって野茨の若芽をもいだり、鳥の巣から卵をとったりして遊んだが、二十数年を経たそのころでも、昔ながらの面影を止めていた。私は当初はこの野鳥の囀りを懐しみ、やはり故郷がよいとしみじみ思ったものであるが、村長として改めて考えてみたら、私の楽しみは、村民の貧困の大きな原因の一つであった。私は懐かしい野鳥の巣を一掃せねばならぬと気がついた。
 しかし、この川を治めることはまた至難の業である。全長三里にも近い堤防を築くためには、村の年々の全予算を投げ出したとしても、二十年もかかる計算である。だが私は村長に就任して二、三日ののち、川原〔徳一郎〕と一緒に十文字〔勝雄〕の老父を訪ね、彼らから治水が根本的な問題たる理由をきいて、必らずこれをやろうと誓った。そのときは、村の予算も知らず、工事費の見当もつかなかったが、いままで誰もやれなかったことを、何とかして自分の手でやってみようと考えたのである。この川が、県費支弁の河川であり、県に頼んでやって貰えることは、その後で知ったことである。
 こうして私は、開拓政策と河川工事を村政の二大基本政策として正式に取り上げ、これを村会で表明した。当時の議員たちは殆んどが中小地主の出身で、開拓政策に賛成なものは一人もなかったが、河川の根本改修にはみな利害をもっていた。それで、まだ私という人間をよく知らないままに、遠慮勝ちにではあったが、この村では、河川を改修して水田をひらけば、食糧は十分だから、開拓はやめて、川の方だけやっていただきたいと異口同音に主張したものである。私はそのときはまだ、彼らがそれほど激しい反対感情や利害をもつ問題だとは知らなかったので、「いや、全村民を救うためには、この二つは、どちらも棄てるわけには行かない。両方共やりぬく心算だ」といいはった。彼らの多くは、村長選挙の際にも私の敵にまわった人々なのだが、選挙が終ってからは協調出来るなら、して行くつもりでいたに違いない。しかし、このときの私の声明で、再び私から離れて行ったのだと思う。【以下、次回】

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