◎これは太古の河流の跡に違いない
中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その十三回目で、第二部「農地改革」の3「農地改革」の続きを紹介する。同章の紹介としては三回目。
それから数日して、さらに上流の栗山という部落にある高原に上ってみた。通称「飛行場」と呼ばれている場所である。ここはクレツボの二倍以上もあるように見え、私は一層強く魅せられた。ところが、その後次第に判ったことであるが、こうした場所が別々に二つあるのではなく、二つが相連なっているばかりでなく、それらが南北三里にも亘って続いていた。すなわち、村には馬淵川〈マベチガワ〉が南より北に流れ、その流れに沿って県道が通り、県道の両側に耕地があるのだが、この耕地の西の端が一様に一つの段にぶつかって終っている。段の高いところは二、三十尺にも及ぶが、たいていは十尺から二十尺程度で、それを上れば緩い傾斜地が西側の山麓まで延びている。この深さは狭いところでも百米はあり、深いところは五、六百米もある。これは既耕地の二倍もの面積である。川の流れと平行して、もう一つの耕地の帯が出来るわけだ。これが一粁〈キロメートル〉ぐらいの間隔で、谿川によって直角に切られ、一つ一つ独立の団地を形成しているのである。これが目につかなかったのは、一段高くなっているのと、立木に被われていたからであった。遠い山は採草地として裸になっていたが、県道の側にあるこの地帯は不思議に林になっているところが多かった。日常使うはずの採草地は一里も奥の山の上にあるのに、二十年か三十年に一度伐るだけの立木は道ばたにあった。この不合理は、土地所有関係が判るまでは謎であった。採草地も、多くは地主からの借り物であり、山奥の立木は、道ばたのそれに比べれば、値段において格段の差があるのだ。
ともあれ、この帯状の開墾適地を発見したことによって、私は初めてこの村の将来に希望をもつことが出来た。しかもこの土質は、既耕地以上に良いのである。これは太古の河流の跡に違いない。長い間に腐植土が出来て、深い土壌となっている。一方、既耕地の方は、新らしい川の跡なので、石が多く土が浅い。さらにこの西側の山麓だけでなく、東側の山蔭にも数百町歩の適地が見出された。【以下、次回】
文中に、「団地」という言葉が出てくるが、「まとまった土地」といった意味であろう。