礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

北陸・芦原温泉で陸軍指定の宿屋に泊る

2024-03-02 01:15:32 | コラムと名言

◎北陸・芦原温泉で陸軍指定の宿屋に泊る

『田中鐵三郎氏(日本銀行元理事) 金融史談速記録』(日本銀行調査局、1960)から、田中鐵三郎の手記「終戦前後の思い出」を紹介している。本日は、その四回目。

6 東上途中の日時着と芦原【アバラ】温泉の一夜
 八月十三日午前十時、いよいよ同盟通信機で京城を立ちました。この飛行機は元来軍用の重爆機でありましたが、内部をことごとく取り払つて実際は単なる輸送機であつたのです。同盟通信の塚本操縦士と助手二名、それにわれら二名で計五名の一行でした。天気は良く、機は南鮮経由の通常のコースをとらないで京城から間もなく東方に向い半島を横断して日本海に出で、遠く海岸を離れて山陰道の北方を能登半島に向いました。大阪への米機来襲に次いで、立川方面に朝来〈チョウライ〉艦載機の大編隊が来襲すとの無電が入つていました。午後一時福井県三国〈ミクニ〉飛行場に着陸、野原で一休みし携帯の弁当で腹をこしらえ、機は三時半再び飛び立つて東に向つたのです。この前の空襲で全く灰燼に帰してしまつた福井市の悲惨な姿を眼下に見ながら、やがて山岳地帯にかかつたとき、無電は再び急を伝えて来ました。それは立川、所沢方面へ米艦載機の大編隊が再び来襲したというのでありました。われらは無防備な一輸送機、ついにその行路は遮断されたわけです。やむなく引き返して明早朝米機の来襲する前に突破するよりほかなしということになりまして、三国飛行場に舞い戻つて一泊することになりました。その夜は飛行場の近所にある芦原と云う温泉町の、陸軍指定という小さな薄暗い宿屋に案内されてそこに落ち着くことになりました。ところで町には相当よい構えの旅館もあつたようでありますが、それらは上官が占抛していたのでありましよう。われわれの宿屋は実にひどいものでありました。まず驚いたことには、ここの人達は一般にのんきと見えて燈火は屋外にあけつぱなしで、いざという時のしやへい〔遮蔽〕設備もいかがわしく、ずいぶん安泰に見える環境でありました。しかしそれよりも当惑したのは、この宿屋の度はずれての不潔ということであつたのです。障子、ふすまの破れや、畳のはらわたがはみ出しているのなどはあえて意に介するものではないのですが、せつかくの温泉場でもあるし、ゆつくりひとふろ浴びたいと思つて風呂場に行き、いざはいろうとしましたところ、どろどろに汚れた湯、鼻をつく一種の臭気、それは入浴の勇気を失わさせずには置かないものでありました。一度脱いだ着物をそのままこそこそと着込んで早々に風呂場を脱出し、洗面所をさがしてやつと水で顔を洗つて我慢したのです。夜はわれわれの投宿を聞いて訪ねて来た若い飛行将校達と雑談に時を移しましたが、やがて寝床についてまた一難が起りました。真夏のことではあり、部屋に似合わす大型のかや〔蚊帳〕がつるしてあつたが、蚊軍の特攻的来襲にはほとほと手に負えないものがあつて驚かされました。どんなところから潜行して来るのかと燈火をつけて点検して見ると何のことはないまわりに大小の抜け穴が散在し、中には人間の頭がはいるほどの大穴もあいているのです。こうなつてはかやはやはり体裁上の一要件とでも思われていたのでしよう。【以下、次回】

 節のタイトル「6 東上途中の日時着と芦原【アバラ】温泉の一夜」に【アバラ】とあるのは、原ルビ。この温泉は、一般にはアワラ温泉と呼ばれている(旧かなづかいではアハラ)。
 田中鐵三郎朝鮮銀行総裁が便乗した同盟通信機は、「軍用の重爆機」を輸送機に転用したものだったという。「同盟通信 爆撃機」でネット検索してみたところ、「三菱キ21 重爆撃機改造貨物輸送機 箱根号」という記事にたどりついた。同記事は、「BUNさん」の指摘を受ける形で、「競争試作に敗れた中島キ19の試作2機のうち1機が同盟通信社へ払い下げられ、J-BACN同盟2号 魁号となっています」としている。田中総裁が便乗した同盟通信機は、この「魁号」だったのかもしれない。

*このブログの人気記事 2024・3・2(8・9位になぜか石原莞爾、10位になぜか東条英機)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする