礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

進駐軍司令部、朝鮮銀行の接収を指令

2024-03-05 00:42:11 | コラムと名言

◎進駐軍司令部、朝鮮銀行の接収を指令

『田中鐵三郎氏(日本銀行元理事) 金融史談速記録』(日本銀行調査局、1960)から、田中鐵三郎の手記「終戦前後の思い出」を紹介している。本日は、その七回目(最後)。

11 丹毒のたたりで中耳炎
 翌朝耳鼻咽喉科の医師に診察してもらいましたが、かぜひきなどとはとんでもないということで、オデキは丹毒の発端で顔面は赤くはれ上り、既に中耳炎を起し病状が進んで手遅れになつているということでありました。全く意外な災難に会つたわけです。早速手当を受けて臥床〈ガショウ〉のまま重役会議をやり、事務打合せをし、報告を聞き、措置を指示することにしましたが、その間井原〔潤次郎〕参謀や総督府の水田〔直昌〕局長その他行内外からの来訪があり、床の中での仕事も急速にはかどつたわけです。翌日は熱が更に上りまして医師から病気がまだ峠を越さないとの警告を受けました。わずかに流動食を採つてみましたが食慾がなく、にわかにやせたのが目だつほどでした。かくて自邸で京城の民間有力者および軍参謀長との打合せ会などをやりましたが、その頃北鮮から羅津、清津の支店の破壊とか、元山〈ゲンザン〉、平壌〈ヘイジョウ〉、咸興〈カンコウ〉支店の接収などにつき不充分ながら入報があり、本店からの出張員や北鮮の支店長もぼつぼつ帰つて来ましたけれど、もとより刻々に変化する事態の詳報は得る由もなかつたのであります。更に支那および内地に対する善後措置について出来る限りの連絡と手配とを急ぎましたが、当時われわれとしては政府の諸措置方針が明瞭でなかつたために当惑することも少なくなかつたのであります。この間銀行の整然たる業態の支持や、行員の今後に備えての準備もやり、内外の情勢暗中模索の感があつたうちにも最善の処置を期しながら、病床に気ぜわしい日は過ぎて行つたのでありました。時に市中では時局下興奮の現象も散見せられ、内地人の商売は減殺〈ゲンサイ〉を免れず、病院の如きも制約を感ぜしむる状態となつて病気療養には日々不自由を加えて来ましたが、殊に医療材料は欠乏し、手当も意に任せない環境となつたのであります。そこで周囲の各位はもちろん軍参謀長その他の知友もこのまま京城に寝ていたのでは病が重態となり再び立つあたわざることを心配せられまして、さいわい最後の飛行機が出るからこの際内地に帰つて療養せよと言われ、しきりと懇切に勧告せられたのであります。九月に入り熱はまだ下らず、丹毒よりもむしろ中耳炎の方が重くなつたという感じを持ちつつ、頭を念入りに繃帯してもらつて二、三軍参謀の一行に同乗することになりました。いつたん福岡までということで着陸しましたが、進駐軍との関係上浜松までなら行けるということになり、夕方浜松飛行場に着きましたところおりあしく雨が降つていて、見渡すところ人影がありません。たまたま兵士二人がトラックで通りかかつたのを頼んで浜松駅にたどり着きましたが、駅は焼け跡のバラック建〈ダテ〉、汽車は来るたびごとに満員、丁度向側の線路に停留している三等の空車を見つけたのでその中で一夜をあかすことにしました。翌朝の汽車もまた満員でしたが、やつと車の昇降口にはい上り手荷物に腰を下して東京に着くことが出来ました。その日は半日銀行に寝かせてもらつてやがて家具のない渋谷の自宅に帰りましたが、耳はますます痛みまして、鼓膜が破れ丹毒の下地の上に中耳炎が再び病勢を加えて来たのであります。病床にただ天井を眺めながら始めは遠く近く飛行機の爆音が聞えていましたが、いつしかそれも聞えなくなりついにうとうとと自覚を失うこと旬日、当時東京もまた薬材に欠乏していて、病院にさえ薬がそろいませんのでその補給を諸所にさがさねばならなかつたのです。今から思うとうそのような話であります。九月三十日進駐軍司令部から鮮銀接収の指令が出たとの報告を受けた時はまだ食慾も出ない頃でありました。一時再起が危ぶまれたこの患者も、順天堂と慶応病院と賀古〈カコ〉病院からの三人の先生と行内各位の限りなき親切とによつてその後漸次病勢は衰え、翌二十一年〔1946〕二月十六日をもつていよいよ完治するに至り、再びこの世に生き残ることを得たのはまことに感激に堪えない次第でありますと同時に、また京城本店にあつてその後の始末に当られた各位の労苦をしのびて感謝の念尽きざるものがあります。これを要するに前後を通じて鮮銀職能の透徹でありまして、重役、行員各位とともに半島経済を中心としての最後の奉仕に最善の努力を傾倒したのであつたことを思い浮べながら自ら慰めている次第であります。

 文中、「賀古病院」とあるが、賀古鶴所(かこ・つるど、1855~1931)が開いた「賀古耳鼻院」、もしくは、その系統を引く病院と思われる。

*このブログの人気記事 2024・3・5(8位のナンセン伝は久しぶり、9・10位に極めて珍しいものが)

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