◎民法典訣別の限界と将来の立法
舟橋諄一訳著『民法典との訣別』第二部「『民法典との訣別』論について」の「一 序説」を紹介している。
本日は、「一 序説」の「三」から「五」まで、すなわち第三項から第五項までをを紹介する。「四」における㈦は、註番号。(七)は、それに対応する註である。
三 なほ、ここに論題となつてゐるのは、直接には『民法典』との訣別であつて、『民法』との訣別とはなつてゐないけれども、もともと商品交換の原則法として一つの論理的体系をなしてゐる伝統的なる民法乃至民法原理は、民法典において、いはば、集中的に表現されてゐるわけであるから、少くともその機能に関するかぎり、民法の運命は、その集中的乃至代表的表現物たる民法典の運命と、不可分離的に結びついてゐるのである。それゆゑ、民法典との訣別は、同時に、民法乃至民法原理との訣別の問題として把促すべきものと考へる。シュレーゲルベルゲル教授の論旨もまた、この趣旨に理解しうるのである。
四 さらに、また、一つの論理的体系をなしてゐる伝統的民法乃至民法典が、機能を喪失し『訣別』をされる結果として、新たに、いはば国民法として、国民生活に関係ある諸法律が単に寄せ集められて、一つの法典として登場し、そして、それが再び『民法典』と呼ばれることがありうるであらう㈦。だが、かやうな民法典は、わたくしの現に問題としてゐるやうな民法典とは、およそ、その趣を異にするものである。わたくしは、ただ、従来の商品交換の原則法として論理的体系なる――伝統的意味における――民法乃至民法典のみを考察の対象とするのであつて、シュレーゲルベルゲル教授の考へてゐる『民法典』もまた、この意味のものである。
(七)ファシスタ・イタリアの新民法典乃至新国民法典はこの種のものであらう。これについては、杉山直治郎〈ナオジロウ〉『ファッシスタ新国民法典』(比較法雑誌二号)、風間鶴寿〈カザマ・カクジュ〉『イタリア新民法典第一編について』(法学論叢四三巻六号)、同『イタリア新民法典「所有権編」について』(法学論叢四五巻一、三、五号)、米谷隆三〈マイタニ・リュウゾウ〉『国民法典の新形成』(一橋論叢九巻五号)、など参照。たとひ、それが一つの『綜合体系』だとされるにしても、それは、『全体主義的生産本位的な国民の公的化せる生沽』を中心とする体系化であつて(杉山前掲一一四頁)、いはば、国民生沽に関連するといふ意味においてのみの綜合乃至集成たるにとどまり、今までの民法典におけるごとく、法典それ自体が論理的なる統一体系を形づくつてゐるのではないのである。
五 わたくしは、以下には、まづ、シュレーゲルベルゲル教授の『民法典との訣別』論を要約的に紹介したうへで、その論点の整理を試み(第二節)、次いで、民法典を非難する諸論点のもつ客観的合理的意義を明らかにするとともに、同教授の抱懐する革新立法の構想についても、その客観的合理的意義を考へてみたいと思ふ(第三節)。そして、最後に、民法典訣別の限界と将来の立法の問題に言及して(第四節)、本稿を終らう。
『民法典との訣別』第二部「『民法典との訣別』論について」の紹介は、ここまで。明日は、話題を変える。