礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

西安事件で中国の政治は大きく変化

2024-03-15 02:35:36 | コラムと名言

◎西安事件で中国の政治は大きく変化

 栗原健『昭和史覚書―太平洋戦争と天皇を中心として』(1959)から、第二部「大戦前史と天皇」の第六章「防共協定と宇垣内閣の流産」を紹介している。本日は、その二回目。

 ここで宮中人事の異勤にふれておこう。二・二六事件で斉藤実内府が殺害されたので、その後を宮内大臣の湯浅倉平〈クラヘイ〉が継ぎ、宮内大臣には松平恒雄が就いていた。また内府秘書官長には、木戸〔幸一〕がやめて松平康昌〈ヤスマサ〉が替った。
 さて、八月に入ると政府は、「国策の基準」(五相会議決定)、「帝国外交方針」(四相会議決定)、「対支実行策」「第二次北支処理要綱」(関係省間決定)といった重要政策を矢次早に決めていったが、いずれも陸軍の主導するものであった。
 それから昭和十一年〔1936〕十一月二十五日、いわゆる「日独防共協定」が締結された。この協定は公表された部分は、共産主義の破壊に対する防衛のため、日独協力するということがうたわれてあったが、附属秘密協定がついていて、それには蘇連邦に対する防禦同盟が約されていた。すなわち秘密協定第一条の前項は「締約国ノ一方ガ『ソヴィエト』社会主義共和国連邦ヨリ挑発ニヨラザル攻撃ヲ受ケ又ハ挑発ニ因ラザル攻撃ノ脅威ヲ受クル場合ニハ他ノ締約国ハ『ソヴィエト』社会主義共和国連邦ノ地位ニ付負担ヲ軽カラシムルガ如キ効果ヲ生ズル一切ノ措置ヲ講ゼザルコトヲ約ス」となっていた。元来陸軍には早くから親独的傾向が濃かったし、またこの頃はナチスの政策をとり入れようとするものが多く、さらに対蘇強硬論および排英熱がつよかった。日独結ぶであろうとのうわさは、昭和八年〔1933〕頃から外国の間では取り沙汰されていた。そこで、この日独同盟問題は昭和十年〔1935〕秋頃、在独大島(浩)陸軍武官とナチス党の外交顧問リッベントロップとの話し合いに端を発したものであるが、大島武官と陸軍中央部特に中堅層とは緊密な連絡がとられて進められた。ところが一方政府側では、広田首相、有田外相らは、日本を国際的孤立から救い、なお共産主義の進出を防止しようという目的から日独提携に賛成したが、しかしこの場合の目独提携は蘇連邦および英国との国交調整をさまたげない程度にしようとはかったので、この日独提携について、陸軍側と政府、外務側とは全く同床異夢のものであった。当時この問題の主管局長であった東郷(茂徳、後の外相)局長は、自分ははじめからこの問題には反対で、陸軍側と強硬に議論して、この協定の緩和に努力し、やっとあの程度にしたものであると記している(東郷茂徳「時代の一面」)。それはそれとして、さきにもみてきたように、中国関係では、陸軍の手によって直接外交交渉が行われたことは珍しいことではなかったが、欧米関係の外交まで陸軍に出しぬかれてきたことは、このときまで先ず先例のないことで、この協定はその点で日本外交史のうえにおける歴史的な意味がみられる。
 中国方面の問題としては、この年十一月に内蒙古において、「綏遠〈スイエン〉事件」なるものが起った。これは関東軍の差しがねで、田中隆吉大佐が参加し「蒙古人の蒙古建設」をスローガンとしたものであったが、蒙古軍は傅作儀〈フ・サクギ〉軍のためにさんざんな目に遭い、田中大佐も逃げ出した。
 次いで十二月、有名な「西安〈セイアン〉事件」が起った。これは西安において張学良が蒋介石を監禁した事件で、中国内外の耳目を驚かしたものである。このとき中国共産党の周恩来の活躍によって蒋介石は二週間で釈放された。しかしこのとき、中国の政治は大きく変化した。中国共産党と国民党内の抗日分子と英米派の提携が成立し、中国の対日統一戦線が契約されてしまった。【以下、次回】

 若干、補足する。広田弘毅内閣は、1936年8月7日、総理・陸軍・海軍・大蔵・外務の五相会議で「国策の基準」を決定し、同日、大蔵を除いた四相会議(四相会談ともいう)で、「帝国外交方針」を決定したのである。

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