礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

陛下を軍艦比叡に迎へ奉り……(井上成美)

2024-03-13 00:25:25 | コラムと名言

◎陛下を軍艦比叡に迎へ奉り……(井上成美)

 栗原健『昭和史覚書―太平洋戦争と天皇を中心として』(1959)から、第二部「大戦前史と天皇」の第五章「華北問題と陸軍の叛乱」の後半部分を紹介している。本日は、その三回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行せずに、次のように続く。

 二・二六事件当時米内光政〈ヨナイ・ミツマサ〉は横須賀鎮守府の長官であったが、動乱勃発の気運を察すると、陸戦隊や軍艦をいつでも帝都守備に派遣し得るよう準備せしめた。しかし相手は陸軍でどんな乱暴をしないとも限らないので、形勢悪化した場合の処置について米内が参謀長である井上成美〈シゲヨシ〉に尋ねると、「井上は『畏れ多いことですが、陛下を軍艦比叡に迎へ奉り、長官自ら全艦隊の指揮に当らるべきです』と断乎として答へる。米内は容を正し『已む〈ヤム〉を得なければその案を実行しよう』と決意を示した。比叡はお召艦とし幾度か奉仕した艦である。井上は比叡艦長にもそれとなく御動座の場合を講じさせた。(緒方「一軍人の生涯」)
 この事件で危うく難を脱れた岡田啓介も、陸軍と天皇との関係について次のようなことを述べている。『同事件で非命に倒れた斉藤実〈マコト〉さんが存命中にわたしにいつた言葉で感銘を受けた一節がある。それはわたしの組閣前だつたと記憶しているが、ある日、わたしをその私邸に呼んでこんな話をした。宮内省を新築するとき、なにか事件が起つた折りに陛下の御身辺をお護りするため御避難所を設けようとの要求を陣軍がもつてきたが、自分は反対した。そのわけは……軍の青年将校が動くときには必ずへんなうわさがつきまとう。すなわち陛下は平和主義者であらせられて思うようにならぬところから廃位をはかるうんぬんという容易ならぬことが心なきものの口に上る。これは非常に危険である。御避難所をつくることは、それがそのまま御監禁所となるおそれもある。君も十分注意してくれ……と、こういう話であつた」。これらの事実は、天皇を「玉〈ギョク〉」と称して奪い合った幕末維新の情勢を彷彿たらしめるものがある。それはともかく、岡田首相と鈴木侍従長が難を逃れたことは歴史の偶然ということができよう。この二人がのちに太平洋戦争終戦のために、表裏一体となって協力することとならた。若しこの二人が二・二六事件で倒されていたら、今日の歴史は多少変っていたか知れない。(余談であるが、岡田啓介の先に掲げた詼話は、後になって岡田・鈴木等当時の政治家のいわゆる「腹芸」なるものを解く鍵になると思われる。数年前私は、米国スタンフォード大学のビユトウ君(Robert J. C. Butow)に「鈴木総理の腹芸」について質問され、第一腹芸とは英語でなんというか、大低の宇引にもなく答弁に窮したことがある。ビユトウ博士の著「Japan's Decision to Surrender」は近頃評判の本であるが、「鈴木総理の腹芸」について多くの頁をさいている。異国の学友の著書の紹介をついかねさせていただいた。読者の了解を乞う)。
 張作霖事件のときと、ここに述べた二・二六事件のときと、さらに終戦の際の天皇の強い御言葉を、関係者は「昭和の三聖断」と云っている。

 第五章「華北問題と陸軍の叛乱」は、ここまで。明日は、第六章「防共協定と宇垣内閣の流産」の紹介に移る。

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