◎出征して行った学生諸君にすまない(河村又介)
数日前、地元の図書館から、日本評論社法律編集部編『法学者・法律家たちの八月十五日』(日本評論社、2021年7月)という本を借りてきた。
まだ、拾い読みしている段階だが、なかなか面白い。法学者・法律家たちが語った「八月十五日」を集めるという試みが有意義だし、個々の体験談にも貴重なものが多い。
本日は、同書の「私の八月十五日 第一集」に収められていた河村又介の「見込みのない愚かな戦争」という文章を紹介してみたい。初出は、『法学セミナー』242号(1975年8月)。なお、今回、紹介するのは、その後半部分のみ。
見込みのない愚かな戦争 河村又介
【前半の三ページ分を割愛】
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私は日清両国の間に暗雲漂っていた頃に生まれた。そして「日清談判破裂して」の軍歌や剣舞の中に育った。勇敢なる水兵やラッパ卒の話、三国干渉、臥薪嘗胆【がしんしょうたん】などに悲憤慷慨させられた。北清〈ホクシン〉事変といっても今の若い人たちはその言葉も知らないくらいだろうが、この事変には私の郷里の連隊が出陣した。
その連隊の一人の中尉が負傷して陸軍の病院から私共の村に帰っていた。あるとき私は父に命ぜられてその中尉のもとに手紙を届けたことがあった。その中尉は頭を撃たれて視神経をひどくやられたとかで失明に近いと聞いていたが、私が訪れたときちょうど家の外でまき割りをしていた。私が帰宅して父にそのことを話すと、父はいたく感激して、「あの人こそお国に身命を捧げつくしてもうこの上なんにもしなくてよい人だ、それでもなおまき割りをしていられたか!」と感銘の言葉をもらした。このくらいのこと、どこにでもザラにある話で珍しくもなんともないのだが、いわゆる美談でも伝聞でもなく、父がごく自然にあらわした感激の表情は、七十年後の今でも私の印象に残っている。
日露戦争の頃は、私はすでに高等科(今の小学校五年)に進んでいた。最新のニュースは翌日配達される大阪の新聞、たまにはその号外よりほかなかった。私はそれを待ちかねて毎日のように配達店までとりに行った――それには連載される講談の続きを読みたいこともあったのだが。旅順陥落のときには、私の綴り方がよく出来すぎているというので、先生たちは私の自作であることを信じてくれなかった。
五月末、父と私は麦のとり入れのために野良にでていた。すると遥か遠くから雷のような音が断続的に聞こえた、後にそれは日本海大海戦の砲声であったことがわかった。また麦畠の傍を通る汽車の中から熱狂した男が、のり出すようにして叫びながら紙片を投げてくれた、日本海大勝利の号外であったが、まだ海戦の半ばに刷ったもので、敵艦八雙撃沈とだけで全滅の結末までは書いてなかった。
思えばこの日は世界歴史転回の日であった。仮りにこの海戦の大勝利がなかったとしたならば、日本は、アジアは、どうなっていたであろうか? ヨーロッパは十九世紀の通りの世界支配を続けていたであろう。アジア諸国は依然として世界歴史の舞台の上に上っては来なかったかもしれない。日本もその一国としての地位を認められるに止まったかもしれない。それだのにこの頃は大学生でも、五月二十七日に今日は如何なる日かと訊いてみても思い出すものは少ない。彼等はトラファルガーやネルソンの名は知っていても、ツシマやトーゴーの世界史的意義を知らないのだ。願わくは八月十五日と共に、五月二十七日の意義をも認識してほしい。
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以上のような体験や環境は私の潜在意識となって、知らず知らずの間に私をナショナリズムの方向に駆り立てているらしい。私はもの心ついて以来、一貫して民主主義の立場を貫いているつもりである。自ら社会主義に同調しているつもりでもある。しかし如何なる場合にもナショナリズムを棄てることはできなかった。
私は最初から大東亜戦争に反対であった。それは勝つ見込みのない愚かな戦争だと思ったからである。したがって、真珠湾やマレー沖やシンガポールなど緒戦の勝利に目が眩んで、一時は思い返そうとしたこともあった。しかし結局すべて空【むな】しい夢と化した。
私は世界史の転換という私の言葉に激励されて出征して行った学生諸君にすまないと思う。私の姪の夫はその妻が孕【みごも】っているときに戦死した。姉の一人息子も戦死した。私の長男は東大の理学部を出たが、その卒業式の日が海軍技術将校として海兵団に入団する日であった。そして海軍附属の炭坑に配属されて数日目に病気にかかり、結局死亡した。三人とも若き中尉であった。私の遠縁の男は三人の息子に次ぎ次ぎに戦史された、最初の二人までは毅然としていたこの男、さすがの薩摩武士も三人目の戦死には遂に黙して口を利かなくなった。それらの英霊に対しては、ただただ冥福を祈るのみ。
〔かわむら・またすけ 元最高裁判事 国学院大教授。一八九四~一九七九年〕
筆者の河村又介は山口県出身。少年時代、その出身地において、日本海海戦の砲声を聞いたという。1932年(昭和7)から、九州帝国大学法文学部教授。「世界史の転換」という言葉によって出征する学生を激励したのは、九州帝大教授時代のことだったようだ。