礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

皇道派は「対蘇抗戦派」、統制派は「大陸経営派」

2024-03-14 00:24:57 | コラムと名言

◎皇道派は「対蘇抗戦派」、統制派は「大陸経営派」

 栗原健の『昭和史覚書―太平洋戦争と天皇を中心として』(1959)を紹介している。
 本日以降は、第二部「大戦前史と天皇」の第六章「防共協定と宇垣内閣の流産」を紹介してゆく。

  六 防共協定と宇垣内閣の流産

 二・二六事件の後、昭和十一年〔1936〕三月四日、組閣の大命は近衛文麿〈コノエ・フミマロ〉に下ったが、近衛は健康が許さない、自信がないとしてお受けしなかったので、大命は改めて翌五日広田弘毅〈ヒロタ・コウキ〉(前外相)に降下した。
 二・二六事件の後始末で、陸軍部内のいわゆる皇道派(対蘇抗戦派)は除かれ、部内は統制派(大陸経営派)によってしめられるようになった。そのときは未だ、戒厳令がしかれており、陸軍は寺内(寿一)大将を陸相に推し、新内閣に協力する条件として、国防の強化、国体の明徴、国民生活の安定、外交の刷新を要求し、また陸軍は、吉田茂、下村宏、小原直〈オハラ・ナオシ〉その他の閣僚候補者が、親英米派であるとか、自由主義的であるとか難色をつけて、これらの人の入閣に反対した。こうして広田内閣は陸軍の要求に押され、ようやく三月九日に組閣を了える〈オエル〉ことができた。
 外相は、はじめ首相が兼任したが、四月二日に有田(八郎)大使が任命された。有田はその数日前、関東軍の板垣(征四郎)参謀長と会談してきていた。板垣はそのとき「関東軍の任務に基く対外諸問題に関する軍の意見」(「日本外交年表竝主要文書」下巻)を文書にして、対蘇問題、外蒙問題、内蒙問題、支那問題に関する方策を有田に提示している。外交問題に対する関東軍の強い要求である。
 五月四日に第六十九特別議会が開かれ、開院式の勅語に「今次東京ニ起レル事件ハ朕ガ憾〈うらみ〉トスル所ナリ」という異例の言葉があった。ところがその十八日に、政府は勅命をもって、陸海軍官制の改正を行った。これによって軍部大臣は現役武官でなければいけないことになった。この軍部大臣現役武官制の復活は、陸軍の伝家の宝刀ならぬ覇刀となって、その後の内閣をおびやかした。後に述べる宇垣〔一成〕内閣の流産も、米内〔光政〕内閣の倒壊もそれに災いされた。後に小磯〔国昭〕内閣が出来るとき、広田は、このときの軍部大臣現役武官制の復活は、首相は三長官会議を経ることなしに陸相を任命することが出来る、との交換条件で立法化したものだと小磯に伝えたといわれている。【以下、次回】

 栗原健は、皇道派を「対蘇抗戦派」、統制派を「大陸経営派」として捉えている。当然ながら、このあとの記述も、この捉え方を前提としたものになっている。

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