◎陸軍ハ自分ノ頸ヲ真綿デ締メルノカ(昭和天皇)
栗原健『昭和史覚書―太平洋戦争と天皇を中心として』(1959)から、第二部「大戦前史と天皇」の第五章「華北問題と陸軍の叛乱」の後半部分を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分のあと「一行アキ」があり、次のように続いている。
天皇は、このとき、この事件はもとより、事件に対する軍首脳部の態度に対してもひどく御怒りになられた。斉藤内府に代行して、一人側近に仕えた木戸内府書記官長の「木戸日記」が最もそのときの真実を写していると思うので、事件そのものの経過または資料は、青木得三著の「太平洋戦争前史」その他の書にゆずり、ここには天皇の御動静にふれた木戸日記を引用しておく。
【一行アキ】
昭和十一年二月二十六日 (水) 曇
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直ニ常侍官室ニ至ル。湯浅〔倉平〕宮内大臣、広幡〔忠隆〕侍従次官長等既ニ在リ。〔鈴木〕侍従長,岡田総理、高橋蔵相等モ襲ハレタルコトヲ知ル
〔川島義之〕陸軍大臣ノ拝謁ノ際「今回ノコトハ精神ノ如何ヲ問ハズ甚ダ不本意ナリ。国体ノ精華ヲ傷ツクルモノト認ム」トノ御言葉アリシ由ナリ。誠ニ恐懼〈きょうく〉ノ至〈いたり〉ニ堪へズ
昭和十一年二月二十八日 (金) 曇
陸軍省参謀本部ノ青年将校ハ暫定内閣ヲ作ルコトヲ申合セ、進言セリト云フ。之ハフアツシヨ的傾向多分ニアルモノナラン此希望ハ蜂起セシ部隊ニモアリ
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陛下ハ暫定内閣ハ御認メナク、陸軍ハ自分ノ頸〈クビ〉ヲ真綿デ締メルノカトノ意味ノ御言葉ヲ本庄〔繁〕武官長ニ御漏シニナリタリト、真ニ恐懼ニ堪へズ、之ヲ承リタルトキハ涙ノ溢ルルヲ止メ得ザリキ
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午後九時後藤〔文夫〕内相総理大臣臨時代理ヲ拝命。引続キ閣僚ノ辞表ヲ取纏メ辞表ヲ捧呈ス。陛下ヨリ「速カニ暴徒ヲ鎮圧セヨ。秩序回復スル迄職務ニ精励スベシ」トノ意味ノ御言葉アリタリ
昭和十一年二月二十九日
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今度ノ内閣ノ組織ハ中々難シイダラウ軍部ノ喜ブ様ナモノデハ財界ガ困ルダラウシソウカト云ツテ財界許リモ考へテ居ラレナイカラトノ意味ノ御言葉アリ、議長ハ困難ナコトハ非常ニ困難卜存ジマスガ自ラ〈おのずから〉途ハアラウト存ジマス。西園寺〔公望〕ハ必ズ考へテ居ルコトト存ジマスト奉答ス
【二行アキ】
国体の尊厳を守り、君側の奸賊を芟除するという蹶起趣意書と、「陸軍は自分の頸を真綿で締めるのか」という陛下の言葉は、あまりにも対照的で印象深いものがあるが、このようなファッショ的暴動と天皇の関係についてなお二、三の资料を挙げてみよう。【以下、次回】
岡田内閣の陸軍大臣は、当初、林銑十郎だったが、1935年(昭和10)9月5日に川島義之に交替した(同年8月12日の相沢事件で、林は引責辞任)。
断るまでもないが、『木戸日記』中、「陸軍ハ自分ノ頸ヲ真綿デ締メルノカ」とある「自分」というのは、昭和天皇の自称である。