◎高田保馬の『終戦三論』(1946)を読む
先日、久しぶりに、高田保馬の『終戦三論』(有恒社、1946年5月)を手に取った。この本は、高田保馬が、戦後になって最初に出した本で、そこには、「第一論 思想政策私見――思想と経済の回顧二十年」「第二論 民主の意義」「第三論 食糧問題の核心」「余論 新円発行をめぐりて」「後記」の五編が収められている。
第一論の一部など、何か所か、紹介してみたいところがあったが、今回は、「後記」を、前後二回に分けて、紹介してみたいと思う。
後 記
十一月の末終戦後いくらもたたず、気持も一向に落付きを取戻さぬ頃であつた。石川師範の清水〔暁昇〕校長から講演に来いとすすめられた。金沢をゆつくり見たこともないので、列車の中の困難は覚悟しつつも、往復三日の旅を思ひ立つた。宿についたら師範の方を通して駒井欽七郎氏から速記を本にしたいといふ希望を伝へられた。速記ならば別に新に筆をとつて書くわけでもないからといつて引受けた。それが此小著の発端である。十二月初めに速記が着いたから手を入れかかつて見ると、結局書き直す位に加筆することとなつた。これだけに苦労する位なら別にいくつかの書きものを附け加へて少しは纏つた体裁にしようといふ考になり、それを此形に於て実現したわけである。もとより速記に根本的加筆をしたものばかりではない、講演の草案として書いたものもあり、話をすまして後筆をとつて其内容を書いて置いたものもある。世間の情勢から見て、これから講演する事も少いであらうと思ふが、いくらかでもその草案なり筆記なりがたまるに応じて続きを出したいと考へてゐる。
金沢の旅は印象が深かつた。折悪しく雨天つづきで和服に下駄ばきの私は困る事も多かつたが、それがかへつて追憶を鮮〈アザヤカ〉にしてゐる。京都から割合近いところでありながら、金沢は私にはじめてであつた。時間も少く匆忙〈ソウボウ〉の中にではあつたが、兼六公園の一帯を一めぐりして、晩餐の席にいつた。関西では想像も出来ぬほどの美味に飽き足りる事が許された。酒はさまで飲まないが主人側の人々の気焔を聞くのはうれしかつた。師範はじめ主催参加の諸学校の側の深き厚意を謝しつつ翌朝金沢駅を立つた。やつと乗込める位のすしづめである。席は勿論ない。立ち乍ら米原まで来た。
ふり返つて見ると講演の方は、話の内容に聴衆の側からあまり興味がないらしく、そのせゐか、大体極めて不出来であつたと言ふ外はない。食糧の問題の方は幾回も話した事のある内容であり、茲に公にしてゐるのは其骨子に外ならぬ。民主の意義については数回、簡易の講演をした。その時の内容をあとから書きつけたばかりではない、序に後で思ひついた理論的の断片をも挿入しておいた。ただ此部分は解りにくいと思ふから、それを省かれてもよい。其他については別に記すまでもない。〈105~107ページ〉【以下、次回】
高田保馬(たかた・やすま、1883~1972)は、大正・昭和期の社会学者、経済学者。戦中・戦後は、京都市上京区塔之段薮下町に住んでいた。金沢講演の際は、東海道線と北陸本線を使って往復したのであろう。
石川師範の正式名は官立石川師範学校。戦中の1943年(昭和18)4月1日、石川県師範学校と石川県女子師範学校とを統合し成立。
駒井欽七郎は、この本の発行所である有恒社の代表者である。奥付によれば、駒井の住所は、金沢市高岡町九十二ノ七。
先日、久しぶりに、高田保馬の『終戦三論』(有恒社、1946年5月)を手に取った。この本は、高田保馬が、戦後になって最初に出した本で、そこには、「第一論 思想政策私見――思想と経済の回顧二十年」「第二論 民主の意義」「第三論 食糧問題の核心」「余論 新円発行をめぐりて」「後記」の五編が収められている。
第一論の一部など、何か所か、紹介してみたいところがあったが、今回は、「後記」を、前後二回に分けて、紹介してみたいと思う。
後 記
十一月の末終戦後いくらもたたず、気持も一向に落付きを取戻さぬ頃であつた。石川師範の清水〔暁昇〕校長から講演に来いとすすめられた。金沢をゆつくり見たこともないので、列車の中の困難は覚悟しつつも、往復三日の旅を思ひ立つた。宿についたら師範の方を通して駒井欽七郎氏から速記を本にしたいといふ希望を伝へられた。速記ならば別に新に筆をとつて書くわけでもないからといつて引受けた。それが此小著の発端である。十二月初めに速記が着いたから手を入れかかつて見ると、結局書き直す位に加筆することとなつた。これだけに苦労する位なら別にいくつかの書きものを附け加へて少しは纏つた体裁にしようといふ考になり、それを此形に於て実現したわけである。もとより速記に根本的加筆をしたものばかりではない、講演の草案として書いたものもあり、話をすまして後筆をとつて其内容を書いて置いたものもある。世間の情勢から見て、これから講演する事も少いであらうと思ふが、いくらかでもその草案なり筆記なりがたまるに応じて続きを出したいと考へてゐる。
金沢の旅は印象が深かつた。折悪しく雨天つづきで和服に下駄ばきの私は困る事も多かつたが、それがかへつて追憶を鮮〈アザヤカ〉にしてゐる。京都から割合近いところでありながら、金沢は私にはじめてであつた。時間も少く匆忙〈ソウボウ〉の中にではあつたが、兼六公園の一帯を一めぐりして、晩餐の席にいつた。関西では想像も出来ぬほどの美味に飽き足りる事が許された。酒はさまで飲まないが主人側の人々の気焔を聞くのはうれしかつた。師範はじめ主催参加の諸学校の側の深き厚意を謝しつつ翌朝金沢駅を立つた。やつと乗込める位のすしづめである。席は勿論ない。立ち乍ら米原まで来た。
ふり返つて見ると講演の方は、話の内容に聴衆の側からあまり興味がないらしく、そのせゐか、大体極めて不出来であつたと言ふ外はない。食糧の問題の方は幾回も話した事のある内容であり、茲に公にしてゐるのは其骨子に外ならぬ。民主の意義については数回、簡易の講演をした。その時の内容をあとから書きつけたばかりではない、序に後で思ひついた理論的の断片をも挿入しておいた。ただ此部分は解りにくいと思ふから、それを省かれてもよい。其他については別に記すまでもない。〈105~107ページ〉【以下、次回】
高田保馬(たかた・やすま、1883~1972)は、大正・昭和期の社会学者、経済学者。戦中・戦後は、京都市上京区塔之段薮下町に住んでいた。金沢講演の際は、東海道線と北陸本線を使って往復したのであろう。
石川師範の正式名は官立石川師範学校。戦中の1943年(昭和18)4月1日、石川県師範学校と石川県女子師範学校とを統合し成立。
駒井欽七郎は、この本の発行所である有恒社の代表者である。奥付によれば、駒井の住所は、金沢市高岡町九十二ノ七。
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